中川神社
江戸時代当時、三佐港は参勤交替への岡藩(竹田)中川公の重要な港町でした。
詳しくは、「三佐の歴史」のページをご覧ください。
中川公は京都の祇園祭りに大変感動され、これを豊後に持ちかえりたいと思い、祇園祭りを真似、三佐に山車を造らせたとのことです。
特に三佐には当時、著名な大工が多かったらしく、今日のような豪華な山車が出来上がったわけです。
その竹田の殿様代々を祭っている神社が中川神社というわけです。
以下の新聞の切り抜きは「大分合同新聞の〜豊國の神々〜」の記事の切り抜きです。
現在、境内がそうとう荒れているということを板若のW氏よりお聞きしました。三佐若連で清掃を兼ねてお参りしようという声があります。
○豊後岡藩は文禄3年(1594)中川秀成公入封に始まり、以後明治4年まで中川家13代、約280年間の歴史があります。 ○その藩政時代には、代々の藩主が竹田城下町の整備や勧農・産業振興に努められ、現竹田市の基礎となっております。 ○当中川神社は、明治5年4月、旧岡城内の藩祖廟所(荘嶽社)を現在の竹田市大字拝田原字鳥越に移築したものであり、祭神として初代藩主秀成公、その父・清秀公および兄・秀政公を御奉祀いたしております。 ○遷祀以来長年の風雨による傷み甚だしく、昭和8年に大改修が行われ、同年10月には岡藩主祖宗奉賽会の発起により、清秀公350年祭及び中興の英主・久清公合祀祭が挙行されました。 ○その後、40年を経過して昭和47年4月竹田市指定有形文化財(建造物)の指定を受けており、また社宝である国指定重要文化財銅鐘「サンチャゴの鐘」は同じく社宝の鎧三領等と共に竹田市立歴史資料館に貸出され、その重要な展示物とされています。 *以上は<中川神社保存修理及び周辺整備に関するご寄進のお願い>のサイトより抜粋しました |
撮影日:平成13年10月6日
資料:サンチャゴの鐘は竹田市立歴史資料館入館パンフレットより、家紋は岡城跡観覧券より
なお、中川神社はこのページのトップにも書いてありますが、「社殿本体の老朽化・一部破損、さらには旧藩士他ゆかりの方々御寄進の多数の燈籠にも破損・倒壊が生じており、石段の崩壊も伴い現状はまことに見るに忍びない様相を呈するまでとなっております。」と、<中川神社保存修理及び周辺整備に関するご寄進のお願い>のサイトにありましたが、平成13年4月21日に平成の改修工事が竣工し、立派なお姿となりました。