三佐・海原・家島地区関連のみを中心としたものです。

近 世 の 三 佐

諸領入り交じりの地(近世遍)

第一章、交代する藩主と入り組み支配

   

三、正保郷帳にみえる大分・海部郡

      (3)村々の土地条件

B鶴崎地区

鶴崎地区は、大分郡・海部郡が入り交じっており、藩領としては、熊本藩領がもっとも多く臼杵・岡藩領のほか松平忠昭・松平一伯領(のち幕府、延岡藩)がある。=中略=
また、諸領入り交じりは、大野川河口部に著しい。これは、諸藩が参勤交代そのほかのための港湾地の確保を要求したためである。=中略=
土地条件の特徴としては、畑地の多さや日損所・水損所の多さに対して山林の僅少さも指摘できよう。畑地については、大野川・乙津川河口部の鶴崎・三佐などの地区は、沿岸部であり、また町場を形成していたことに理由がある。

   

四、岡・臼杵藩領の成立

      (1)岡藩領と三佐

@市内の岡藩領

岡藩中川家は、文禄2年(1593)の大友吉統の除国後、豊後国岡(竹田市)へ配され、以後明治4年(1871)まで278年間にわたって居城を動くことがなかった。領主の交代が激しかった豊後では唯一の例である。
幕末期の段階において、岡藩は、大分市域で5ヶ村(三佐・海原・葛木・秋岡・仲村)計665万石余を領有している。このうち、一村全部を領有しているのは三佐・海原・仲村である。
5ヶ村が一括されずに散在している。この原因は、5ヶ村が岡藩領に編入されていった過程にありそうである。
A今津留浦と沖ノ浜
中川氏が豊後を領有するよう豊臣秀吉から命じられたのは、文禄2年(1593)11月19日であった。その「朱印状」2通では、来春(文禄3年春)豊後へ配置し、直入郡の内と大野郡の内で6万6千石をを与えるといわれている。この段階では大分郡には領地はない『中川史料集』。
岡藩初代藩主中川秀成が、入部したのは文禄3年(1594)2月13日であった。前任地播磨国(兵庫県)三木を出立し、速見郡小浦(別府市)へ上陸し、陸路岡へ入っている。
文禄3年(1594)8月15日、中川秀成は秀吉から「豊後国大分郡内今鶴村四百六拾弐石五升」を「舟着きたるにより御代官を仰せ付けられ」ている。=後略=
F三佐・海原村と舟入り普請
萩原の代替地として、幕府からは当初は乙津村が示されたようである。しかし、それは竹中氏によって拒否され、竹中氏は中津留村を替地として提示したが、今度は中川氏が拒否し結局三佐・海原村を受け取ることとなった。=中略=
元和9年(1623)閏8月23日、三佐・海原村の受け渡しが行われ、船着場や町屋の普請が開始された。9月13日には三佐の町割のため、中川式部が遣わされ、船奉行柴山藤四郎も移ってきた。
これ以降幕末に至るまで、三佐村は、岡藩の瀬戸内海への玄関口として、参勤交代や諸物資の交易の基地として重要な役割をもつことになる。=後略=
寛永2年(1625)6月には、召船(藩主の御座船)住吉丸の船蔵が作られ、10月港湾施設としての船入り普請の願いを幕府に提出している。翌3年(1626)3月には、工事のため役人が三佐へ派遣され、閏4月の藩主中川久盛の上洛のため出発が三佐から行われ、家老が見送りに来ている。以後、これが恒例化している。
寛永13年(1636)には、船置場(長さ3町・約330m、幅50間・約90m)の工事願いを幕府に提出し、また三佐と岡の間の継飛脚・伝馬など交通・郵便の制が定められ、三佐のもつ意味はますます高くなっていった。=後略=
資料1、「野坂神社の絵馬」(野坂神社所蔵)
岡藩主の三佐入港のようすを描いた絵馬。御座船の引船部分も見られる。
資料2、「岡藩の三佐御茶屋の建物」(三佐、三浦家)
旧三佐小学校敷地内にあった御茶屋は移築されて、往時の姿を今に伝えている。
G岡藩の大分郡領支配
=前略=岡藩では、三佐村には幕末まで代官を配置している。また、村々を合わせて組という組織を作っていた。大分郡5村は三佐組として一まとめになっていたが、貞享2年(1685)の段階では3組、すなわち、三佐組(三佐と三佐塩浜)・海原組(海原と葛木)・仲村組(仲村・秋岡と直入郡伊小野村)に分かれている。そして大制札場(多くの高札を掲げている所・領内15ヶ所)が三佐村に、小制札場(領内98ヶ所)が海原村の4村に設けられている。小制札場は、大野・直入郡では置かれていない村が多いのだが、大分郡では、わずか8石余の秋岡村にもあった。飛地という事情によるのだろう。
そのほか三佐村には交通の拠点として番所が川口と町口の2ヶ所あった。陸上交通でも馬持がそれぞれ三佐村に3名、海原にも6名配され、荷物の継ぎ送り役を行っている。
町場を形成していた三佐村では、火災が大きな被害をもたらしている。宝永2年(1705)閏4月8日の火災では、役人・水主家121軒、町家87軒、農家27軒、寺1ヶ所の計236軒を焼失し、焼死者も2人でている。その後、正徳元年(1711)9月には、75軒(士屋敷5、小役人屋敷9、足軽屋敷1、水主屋敷34、町屋26)が焼失する火事が起こっている。宝暦6年(1756)12月は、水主の家から出火し、焼失家数50軒のほかに、船倉15ヶ所とその中に入っていた26隻の船が焼けている。

      (2)臼杵藩領の村々

A領地の確定
=前略=大野川河口の家島は、大分郡領の年貢米などの積出地として重要な意味をもっていた。このため、家島の大庄屋野上氏は「郷士」の取り扱いをうけている。臼杵藩内で郷士分の扱いを受けた大庄屋としてはほかに「川登鉄砲卒」として著名な川登組(野津町)の広田勘解由あるのみである。野上作左衛門について、『桜翁雑録』は、次のように紹介している。その権威と家島の重要性がうかがわれる。
「家島は他領の只中なり、岡城中川殿、三佐より御船にて御上下のたびごとに、川筋御案内として作左衛門、御小早船に臼杵御紋付御幕を張らせ槍一筋立て罷り出、御逢あり」
領域の錯綜していた大野川河口の家島庄屋は、いわば臼杵藩の「顔」として岡藩主への目通り(面会)が許されていたのである。
B市域の臼杵領
=前略=村々から集めた年貢米の収納施設として在蔵がある。これは領内の各村に設けられていた。すべてが大分市内に属する大分・海部郡の村々である。これらの年貢米は、城下に回送せず、家島や府内の沖ノ浜にあった臼杵藩の蔵から大坂へ直送されることとなっていた。家島へ集められるのは、大野川沿いの村々、沖ノ浜へは大分川沿いの村々の年貢米であった。=後略=

五、熊本藩領と鶴崎御茶屋

      (2)鶴崎船手と水主

@鶴崎船手
=前略=川口の整備では、同じく大野川河口に三佐を領有している岡藩中川氏および家島をもつ臼杵藩稲葉氏との間で、「ミを木」(澪木、水先案内のための水路の標識)を建てるための交渉を行い、熊本藩では17ヶ所の澪木を建てている。御茶屋の普請もこのころ行われて寛永末年(1943)には、鶴崎の行政・港湾設備も完成したようである。=後略=


第四章、農村の暮らしと産業・交通の発達

   

一、村人の暮らし

      (2)祭りと信仰

D庚申信仰
江戸時代の代表的な庶民信仰の一つが庚申信仰である。人の体の中にいる三尸という虫が、庚申(かのえさる)の夜その人が寝ている間に体を抜け出し、天界に昇って天帝にその人の悪事を告げる。天帝がこれを聞くとその人を早死させるというので、その夜は身を慎んで一睡もせずに三尸の所行を予防する。もともと道教の思想に根ざした庚申の信仰は、日本で独特の発展を遂げ江戸時代に全国的に広まった。人々は近隣で庚申講を作り、夜なべ仕事を休むなどの禁忌を守って、青面金剛や猿田彦大神の掛軸などを掛けた前で語り明かして一夜を過ごした。
庚申信仰は庚申塔の造立によっても確かめることができる。人々が折々村内に建てた甲申塔には「青面金剛」の像や文字を刻んだもの、あるいは「猿田彦」の文字を刻んだもの、または単に「庚申塔」という文字だけのものなどいろいろな形態が見られる。
昭和50年ころの調査では、鶴崎地域にはそうした庚申塔が12基みつかっている。

資料1、「三猿の庚申塔」(三佐地区海原)
江戸時代の代表的な庶民信仰の一つが庚申信仰である。

ニ、村の諸産業

      (2)「在町」の発展

B戸次市・鶴崎・三佐
=前略=岡藩領の三佐「町」もまた岡藩の海の玄関口である。もともとは三佐村のうちであるが、町筋が形成されて「乙名」(おとな)と呼ぶ町役人が町政を担当した点で、大野川の中流に作られた港町の犬飼「町」に同じである。このように交通の要地に「町」域が設けられていることは、いずれの場合にも共通する。人の行き交う町が物資の集散地となるのは昔も今も同じである。「在町」の発展は城下町中心の経済圏に対抗する新しい農村経済の動きである。

資料1、「三佐の町屋と船入り」(昭和30年代の空中写真)
乙津川から分流する川にそって三筋からなる町屋が形成されている。板屋町に見える大きな池と周囲の長方形はかつての岡藩船の船入りであった。四方、海と川に囲まれた三佐は、水上交通の要地であった。

      (3)塩と塩売り

A萩原村の塩作り
=前略=幕末に近い天保11年(1840)になるが、河村家文書によると、三佐村では周囲26間(約47m)に及ぶかなり大きなかや作りの塩焚家を建てようとしている。
B原塩と三佐塩
=前略=岡藩の港町三佐もまた重要な製塩地である。文化元年(1804)の三佐村での塩浜の持主をみると、全部で20人を数える。また、塩浜の数は合計38ヶ所、一人が数ヶ所を持っている場合ももちろんある。塩浜の面積は三町三反余。一反について規準となる塩生産量は八斗の割合であり、田畑に対して決められた斗代と同じ方法がとられている。個人ごとにみると平均して一反から二反程度の保有面積で、特に飛び抜けた者はいない。
三佐村の塩浜経営の特徴は、塩問屋がこれを支配していることである。すなわち、浜方での「塩浜稼ぎ」の者に対し塩問屋が「諸式元入」つまり生産用具から経費まで一切を負担して生産に当たらせ、できた塩はすべて塩問屋が集荷するというしくみである。塩浜は村人の個人別の保有であるが、経営は問屋資本の下に置かれていたのである。


三、海の道と陸の道

      (1)瀬戸内航路

@海の玄関口
豊後水道を含む瀬戸内海は海の銀座にふさわしく、内外の商船・客船が間を置かず行き交う海の幹線である。大分の人々は古来よりこの海を通じて瀬戸内方面と結びついた。特に陸上交通に多くの困難が伴った明治以前、物資輸送の中心は船であった。江戸時代、規模こそ違うが別府湾上にはさまざまな物資を積んだ帆かけ船が、白い帆に回船問屋の屋号のマークも鮮やかに海面をすべっていた。
=中略=
鶴崎は熊本藩、三佐は岡藩の海の玄関口である。参勤交代の藩主の御座船やそれに従う大小さまざまな船が時折り港にいっそうのにぎわいを添えた。
=中略=
家島村も大野川を通じて運び込まれる臼杵藩の年貢倉庫があった。
A「客船帳」の港
客船帳からは、どれも江戸時代後期、大分市域の別府湾岸の港を基地に活動した回船の一端をみることができる。それからは、安芸国竹原(広島県竹原市)の忠海の回船問屋浜胡屋(荒木家)と江戸屋(羽白家)に立ち寄った回船、また日本海側の石見国浜田外ノ浦(島根県浜田市)への寄港船がわかる。
寄港地の回船問屋たちは、積荷を売りに立ち寄る全国各地からの回船を、年・船名・船主・積荷などについて記録した。「客船帳」とよばれる帳簿がこれである。ちょうど顧客リストに当たるものであり、回船業者にとってはもっとも大切な営業帳簿の一つであった。各地から出た回船は商品相場の情報を広く収集して、高値取り引きのできる港に船を向けた。
忠海や外ノ浦に入港した郷土からの船は、鶴崎・小中島・乙津・三佐・春(原)・府内の港から出たものである。
ほかにも鶴村の船はもっぱら丹生産の松葉を三佐・三川・萩原に製塩燃料として運び込んでいる。
資料1、「忠海、浜胡屋への客船帳」、港は鶴崎(三佐・小中島・乙津港)*参考資料:荒木家文書
・年〜文化12、回船〜民吉丸、問屋〜かぎや周吉、商品〜新種蝋
・年〜文政元、回船〜福吉丸、問屋〜伝次郎、商品〜?
・年〜天保元、回船〜栄宝丸、問屋〜忠左衛門、商品〜小麦・大麦
・年〜天保9、回船〜宝来丸、問屋〜金右衛門、商品〜大豆
・年〜年不詳、回船〜宝来丸、問屋〜永井屋豊次郎、商品〜切物
・年〜年不詳、回船〜徳吉丸、問屋〜嶋屋儀右衛門、商品〜?
・年〜年不詳、回船〜松栄丸、問屋〜平六、商品〜?
・年〜年不詳、回船〜宝金丸、問屋〜嶋屋金兵衛、商品〜米
・年〜年不詳、回船〜住吉丸、問屋〜吉野屋治郎右衛門、商品〜鮎
・年〜年不詳、回船〜住吉丸、問屋〜有見屋大吉、商品〜綿実
・年〜年不詳、回船〜宝勢丸、問屋〜嶋屋金次郎、商品〜?
・年〜年不詳、回船〜御吉丸、問屋〜三好屋清兵衛、商品〜椎茸
・年〜年不詳、回船〜御吉丸、問屋〜禎吉、商品〜?
・年〜年不詳、回船〜天神丸、問屋〜嶋屋豊吉、商品〜米・桐木
・年〜年不詳、回船〜天神丸、問屋〜岩田屋孝右衛門、商品〜?
・年〜年不詳、回船〜小松丸、問屋〜丸屋喜兵衛、商品〜たばこ
資料2、「忠海、江戸屋への客船帳」港は鶴崎(家島港)*参考資料:羽白家文書
・年〜年不詳、回船〜?、問屋〜布屋四郎右衛門、商品〜?
・年〜年不詳、回船〜?、問屋〜藤屋藤兵衛、商品〜?
・年〜年不詳、回船〜?、問屋〜花屋源右衛門、商品〜?
・年〜年不詳、回船〜?、問屋〜木屋千右衛門、商品〜?
・年〜年不詳、回船〜?、問屋〜伊勢屋新三郎、商品〜?
・年〜年不詳、回船〜?、問屋〜伊勢屋久兵衛、商品〜?
・年〜年不詳、回船〜?、問屋〜伊勢屋久左衛門、商品〜?
・年〜年不詳、回船〜?、問屋〜桝田屋松右衛門、商品〜?
・年〜年不詳、回船〜?、問屋〜大嶋七兵衛、商品〜?
・年〜年不詳、回船〜?、問屋〜大嶋半五郎、商品〜?
・年〜年不詳、回船〜?、問屋〜柳屋光右衛門、商品〜干鰯
・年〜年不詳、回船〜天神丸、問屋〜伴屋甚兵衛、商品〜?
・年〜年不詳、回船〜天神丸、問屋〜伴屋又次郎、商品〜米
・年〜年不詳、回船〜天神丸、問屋〜嶋屋喜平次、商品〜たばこ・大豆
・年〜年不詳、回船〜天神丸、問屋〜嶋屋利右衛門、商品〜あずき・大豆
・年〜年不詳、回船〜胡丸、問屋〜嶋屋清右衛門、商品〜?
・年〜年不詳、回船〜胡丸、問屋〜はりまや吉次郎、商品〜?
・年〜年不詳、回船〜松尾丸、問屋〜肥後屋伝兵衛、商品〜空麦?
資料3、「外ノ浦への客船帳」港は三佐港*参考資料:諸国客船帳
・年〜天明2、回船〜万慶丸、問屋〜木屋惣右衛門、商品〜?
・年〜文化14、回船〜福井丸、問屋〜福嶋屋半左衛門、商品〜?
・年〜文化14、回船〜宝一丸、問屋〜俵屋清右衛門、商品〜?
・年〜文久2、回船〜天神丸、問屋〜秋津屋広五郎、商品〜?


      (3)三佐村庄吉漂流記

A三佐村庄吉の漂流
幕末も近い安政6年(1859)11月26日、庄吉を船頭に息子の惣太郎と水手(かこ)3人(玉之助・由五郎・嘉七)の5人が乗り込んだ福吉丸は順風満帆、菜種油を積んで三佐港を長崎に向けて出向した。無事長崎での商売を済ませ翌年2月22日には家族の待つ故郷に向けはやる心を押えて出船した。
ところが、間もなく長崎半島の先端野母崎を過ぎるころから北東の烈風に変わり、船は波にもてあそばれる木の葉のように舵も取れず、とうとう午後8時ごろには暗やみの中帆柱を切り捨て転覆をやっと免れるという状態に陥った。こうして28日の朝まで、まさに波間に漂う小船そのままに、行先もわからずなす術もなく運を天に任せるしかなかった。
朝、わずかに小島らしい姿が水平線にみえ隠れしたのもつかの間、激しい風波に5人のうち、自分の息子を失った庄吉の胸のうちは察して余りある。
3月8日朝4ツ時分(午前10時ごろ)島影をみかけた。必死の思いで船を操り、夕暮れすぎにやっと上陸できた。長崎を出て実に16日目、悪夢に満ちた海の日々であった。幸い岩陰に湧き出ていた清水が、疲れ切った体をいやす何よりの慰めとなった。
翌朝島の人らしい姿をみかけ手招きをしたところ、やってきた人物の言葉はまったく通じず当惑をしたものの、村の場所だけは何とか理解することができた。飢えと疲れで崩れそうな体を引きずるように、一人がその村人に同行、行きついた村は川田村という村であった。このあと4人は、村人の手厚い看護を受けて、やっと生き延びた実感を味わうことができた。
4人の漂流した所は実は沖縄だったのである。船は「琉球国之車泊」という場所に着岸した。現在の沖縄県国頭郡東村高江のうちである。もともと数軒しか人家のない、断崖の下に開けた小さな砂浜海岸である。
4人は川田村に2日間滞在して役人の簡単な取り調べを受けたあと、久志浦で詳しく事情を聴取された。川田村では惣太郎の遺体を埋葬し、手厚くその霊を弔った、その後、那覇の泉崎に護送された4人は、番人の役人はもとより国王尚氏からも厚い待遇を受け、約140日滞在。6月25日薩摩への便船に乗って7月5日、やっと薩摩の秋目浦(現鹿児島県川辺郡坊津町秋目)に戻り着き、8日には鹿児島城下に到着。ここで引き取りの岡藩の役人の下に入ったのである。
庄吉たち4人のこの後のようすはまったくわからない。しかし、半月を越えた苦難の漂流に耐え、はるか沖縄の地を踏んだ4人の足跡は、沖縄でも「球陽」附巻尚泰13年(1860)の条に記されている。
資料1、「原浦沖近辺での難破船」*参考資料:三浦家文書
・年月〜寛文12年10月(1672)、船〜周防国松浦船、難破地点〜府内より出船、原浦で難破
・年月〜延宝3年3月(1675)、船〜萩原村久太郎船、難破地点〜河口で破船
・年月〜延宝8年11月(1680)、船〜土佐国周防方浦五枚帆船、難破地点〜三佐から府内への途中原浦沖で難破
・年月〜元禄3年10月(1690)、船〜佐伯宇山村五枚帆船、難破地点〜別府浦へ商売の途中原浦沖で難破
・年月〜元禄3年12月(1690)、船〜別府浦安兵衛船、難破地点〜?
・年月〜元禄14年12月(1701)、船〜宇佐中須賀浦助右衛門船、難破地点〜杵築守江より大根積荷で来浦、原浦沖で難破
・年月〜享保5年8月(1720)、船〜冬田村半兵衛川船、難破地点〜三佐に薪売り塩買い、原浦沖で難破
・年月〜享保10年12月(1725)、船〜周防国下松浦兵四郎船、難破地点〜鶴崎川口とまちがい着浦
・年月〜?、船〜佐賀関浦船、難破地点〜府内沖で難風のため破船
資料2、「三佐村庄吉が漂流した推定経路」
・安政6年(1859)11月26日三佐を出帆
・安政7年(1860)2月22日長崎を出帆
・同2月22日8時頃、北東風強く帆柱を切る
・同2月28日朝、島影を見るが風波強く近づけず(トカラ列島の一部か)
・同3月3日風和らぐ、南東の風にて残存した帆を使い西南西に航行
・同3月7日午後8時頃、惣太郎死亡
・同3月8日午前10時頃、島影発見、午後8時頃上陸


第七章、キリシタンへの迫害と寺社

   

三、神社と祭り

      (1)領主と祭り

D剱八幡宮・野坂神社
江戸への参勤には、熊本藩加藤・細川氏や、岡藩の中川氏も、瀬戸内海の海上路を利用していた。熊本藩の参勤交代の経路は、鶴崎と大里(北九州市)の2経由で、それを交替にしていた。供人数八百余名、船数60艘余、船手総数1500人ばかりの大集団の移動であった。この海上平安を祈願する絵馬が剱八幡宮に奉納されている。御座船「波奈之丸」(なみなしまる)の帰船の状況が描かれている。
岡藩は、竹田から陸路で犬飼まで下り、そこから大野川を川船で下り三佐の港から瀬戸内海へと出船した。三佐の野坂神社に文化10年(1813)に中川久貴の奉納した御座船「住吉丸」の入港を描いた絵馬が残っている。
剱八幡宮・野坂神社の両絵馬とも御座船を中心に引き船、多数の供船が彩色で描かれみごとなものである。両神社とも熊本・岡藩の海路平穏を願う祈願所として藩との結びつきが深かった。


野坂神社の岡藩三佐入港船絵馬

乙津川の河口部に位置する三佐は、1623年の岡藩


*参考資料:昭和62年刊大分市史(中)