祭りと芸能
夏と疫神送りの態(わざ) |
○一般に祭りというと、若々しく練り歩く神輿や華麗な山車が想い起されるだろう。山車は祭り囃子に囃されながら練り進むが、その祭り囃子が一段と祭りの雰囲気を盛り上げてくれるものである。いまは囃しというと、笛・太鼓・鉦などで演ずる一種の伴奏音楽のことであるが、「はやす」のもとの意味は、「はがす」と同類の語で、「ふゆ」と同様に分割ー特に魂の分割増殖を指し示すものであったのである。神霊の宿る山の木を切って、この木を寺社や貴人の家まで運んでくるその時に笛・太鼓・鉦などを打ち鳴らしたものだから、いつしかその行為そのものを囃子というようになり、さらにその伴奏音楽を囃子と呼ぶようになったのである。だから、「はやし」は、もとは夏祭りのものではなく、松囃子などという小正月の行事に主体があったのである。それが、木を曳くという見た目の行為に主体が移っていったために木遣囃子のように思われ、山車の練行に応用されることになったのである。
○山車と祭り囃子(山車囃子)は、全国どこでも見られる夏祭りの景物であるが、京都の「祇園祭り」に端を発したものなのである。祇園祭りは清和天皇の貞観11年(869)に疫病退散祈願として行われたのが最初で、この時は全国66国に見立てた66本の鉾を押し立てて、神輿を神泉苑に送っている。山車は一条天皇の長保元年(999)からであるが、意図は山鉾に疫神を依らしめてこの世から送り出すことにあった。神泉苑に送ったというから水に流して送ることにしたのだろう。
○夏は疫病が流行しやすい。上代の人々は、せっかく冬に肉体にいわいこめた魂にも、半年を経過して、穢れが付着して弱くなってくると考えており、その魂の弱った隙を狙って疫病神が取り付くものと思っていた。だから、まず第一に、この時期には、この魂の穢れを払う必要があった。その行為として禊も行われるが、一方、人形を作って、それで身体を撫で、穢れを人形に移して流すということも行われてきた。この「撫づる」という一種の鎮魂の作法が「なつ」のの語を生んだらしい。夏は穢れを払う「撫づ」を行うべき時なのである。稔りの秋を控えて襲来してくる夏の悪霊を追い払うべき季節でもあったのである。「六月祓」「ねぶた」「たなばた」「盆」などが、その最後の時に念を押すように行われる理由はその辺にあった。人形送りの最も盛大なものが青森のねぶたである。巨大な燈龍式の組人形を賑やかなねぶた囃子と飾り笠をかぶった狂乱舞の「はねと」の群が一隊となって練り進むのである。こうした疫神(御霊)鎮送を主目的として飾粧性・仮装性の色濃い賑やかな祭り行事や芸能を”風流”と呼ぶが、夏の祭りや芸能は風流一色に彩られているといってよいだろう。盆踊りも風流の一種である。
○「はる」は心意あらたまる「発(はる)」で、「あき」は願果たしの「あく」であるという。それぞれに目的にそうた祭りと芸能ーーー例えば、春は耕田の予祝の田遊び、秋は刈り上げの祭りーーーがあることはいうまでもないことである。おおむね神迎えと神送りに行われるものと考えてよいだろう。さらに付け加えるならば、祭りは一年中分散して行われているが、春・秋本来の祭りより、冬・夏の祭りが拡散して行った面が少なくないようである。
四季と祭り |
○日本は四季に包まれている。日本人は稲作を基盤とする社会を形成すると、四季によってひき起こされる生育の変化に敏感になり、植物観相を中心として季節を考えるようになったようだ。それは、いったい何者が季節をひき起し、支配しているのか。そして、人間は季節季節に何を行い、どう対処すべきかということであった。われわれの祖先たちは、その現象を、神々の仕業と考え、その仕業の起こる時期に神意を問い、神意に従おうとしたのである。その神意を伺う行為が、祭りだったのである。だから、祭りは四季それぞれに人間の直面する問題意識、つまり、ある目的を以って行ってきたことになる。語源的に見ても、「まつり」は「たてまつる」とか「まつろう」などの語が示すように、献上とか服従の意を内包することばであり、神に食物や衣服を献上して神意を問い、神の宣り給うたことに従おうとする行為であることがわかる。
○四季は春・夏・秋・冬である。そしてそれぞれ「はる」「なつ」「あき」「ふゆ」と訓んでいる。もちろん漢字の方が借りもので、訓みの方が季節語である。そして、これらの季節語こそ、それぞれ、「まつり」に関連して生成したものである。
○ところで、暦月の置き方だが、すべて旧暦で考えねば的外れになりかねないということである。多くの祭りの日取りが新暦に置きかえられたため、季節と祭りの関係が曖昧になってしまったのである。ほぼ3・4年10日早くなっているといっても過言ではない。
冬と神迎えの態(わざ) |
○「ふゆ」から述べる。なぜなら、まつりの思想が最も鮮明に現れていると思うからである。冬は植物がいちじるしく枯れ果て、万物の生気が一番衰える時期である。古代の日本人は、これは万物に内在する魂が、一年の活動の末に疲れ果てて萎えてしまうためだと考えたのである。この時期には神々も、秋の稔りをこの世に授けて、神々の国に帰ってしまわれていると思っていた。神々の国こそ永遠の魂の宿る国であり、古代人はこれを常世の国と呼んでいたのであるが、この魂の力なく衰えた世界に再び神々を迎えて魂の活力の復活を図らねばならなかったのである。この神の魂を迎える行為を古くから「みたまのふゆ」といっている。これに鎮魂の字を当てて、魂鎮め(たましずめ)などともいうが、このみたまのふゆの「ふゆ」が実は冬の語源なのである。この冬という語の古い意義は、「殖ゆ」という増殖を意味するものといい、また、そのための呪術的行為を示す「振る」という語と同根だともいわれている。それは同時に物を衝く行為をも示すという。
○宮中の行事に鎮魂祭というのがある。旧暦11月中の寅の日の行事で、御巫役の女官が、伏せた槽の上に乗って鎮魂歌にあわせて舞い、手にした鉾でとんとんと槽を突く。すると、そのかたわらで神主役の(中臣)の役人が一・ニ・三・・・・・・十と唱えて玉の緒というものを結ぶ。寄り来る新しい強力な魂を天皇の身体にいわいこめるための呪術である。そして、実は、この鎮魂の態が芸能の古態を物語るものなのである。
○このことは、「あめのいわやど」の神話の「あめのうずめのみこと」の作法(槽の上で激しく舞い足踏みをする)と同じことをしていることになる。要は岩屋戸におかくれになった「あまてらすおおみかみ」を外に誘い出そうとしたわけだが、これは遊離した「おおみかみ」の魂を再び元に戻そうと、そのための鎮魂の作法を行っていることになるのである。『古事記』では、うずめは「神懸り」したとあり、『日本書紀』では、「俳優(わざおぎ)」を作したとある。神懸りは神の憑いた異常な状態をいっており、俳優とは、神あるいは魂を「招ぐわざ(おぐわざ)」をしていることを物語っているのである。海幸彦・山幸彦の神話も有名だが、『古事記』には、海幸彦が溺れる「種々の態」をしてみせたとある。そして、実は、芸能の能は態の字の心がいつしか脱落したものだという説が有力であるのである。芸(藝の略字として用いているが、いささか見当違いな略法というべきである。芸はよい香りの匂う様子をいうことばである。)もわざであり態もわざを示しているのである。特に態は、初め神わざをいっているわけで、芸能が宗教ないしは信仰的な要因によって発生したことは疑いのないところである。ついでながら、芸能が今日でいう歌舞伎などの芸能の意味に使われるようになったのは、平安末期以降室町時代までのことで、それ以前は医学・学問・教養の意味に使われていたのである
○以上から、冬は神迎えの態をする時期だったのである。この神話は神楽の起源として昔から説かれてきたが、実際に冬に行われる神楽が少なくない。例えば、東北地方の有名な「山伏神楽」がそうである。祈年(としごい)の祈祷として神の権化たる獅子(権現様)を舞わし、古風なさまざまな神楽能を演ずる。愛知県の北設楽地方に行われている湯立神楽の「花祭り」もよい例である。湯を囃すさまざまな舞いと、それによって出現した神々の舞いが舞われる。旧暦の11月に行われているので、「霜月神楽」とも呼ぶ。宮崎県の高千穂地方に行われている「夜神楽」も同断である。さまざまな幣(みてぐら)を採物としての舞いが次々に演じられてゆく。