三佐の人形山車と三佐太鼓の由来

以下の文は、昭和51年の大分市春祭りの要請をうけて、三佐の山車が大分市の中央通りに行った時、市民の方に配布したチラシの内容です。



「私たちは三佐の若連中です。本日大分市の春祭りに協賛して、春祭りを、より一層盛大に有意義なものにするために参加しました。」
「この山車の彫刻は徳川時代から明治、大正、昭和に亘り、三佐に住む優れた名大工の手によって作られたものばかりです。飾ってある人形も昔から三佐の住民で、親子2代にわたる三浦氏の作品であります。現在(2代目)の三浦氏の作品は、特に優れ俳優の似顔を彫刻する特技を有し、別府のラクテンチの人形は皆この三浦氏の作品です。」

考察:夏の大分市七夕祭りの前は、大分市春祭りに出てたんですね。う〜んこれは記憶がほとんでないですね。二行目からは三浦人形店のことですね。現在工場は海原から、八坂に移ってます。



「そもそも三佐太鼓の由来については、確実な書き物は残っていないが、昔の人からの言い伝えによりますと、今から約200年程前(徳川末期)からのもので、その昔、当三佐の藩主である竹田の殿様中川候が参勤交代の砌り、たまたま京都を通るとき祇園祭りの山車の行列を見て、これは面白いものと思われ、三佐から腕前の優れた大工数名と、住民数名を上洛させ、大工には山車を作らせ他の者には太鼓と鐘を習わせて、これを子供に教えたという。」

考察:他の文献では、三佐の祭りの伝統は350年以上の歴史とよくいわれてますが、、、このチラシからいくと約200年程前となっていますね。どうも調べれば調べる程、意外と新しい祭りであることがわかってきていますが?2行目の「かね」鐘ではなく、鉦が正しいのです。また現在では「こども」を子供とは表記せず、子どもと表わすことが一般的です。また、何度も繰り返しますが、三佐太鼓と言えば、現在は太鼓山車の太鼓のことが一番に思い浮かぶのですが、本来は人形山車の太鼓が主だったのですね。自分自身の中で訂正しておきましょう。



「当時はこの山車を「ダンジリ」と呼んでいたが、この「ダンジリ」には武士の子供でなければ乗れなかったそうで、太鼓と鐘の囃子で町内を練り廻していたという。」


考察:ほ〜!、昔は武士の子どもしか乗れなかったんですかー。しかし、人形山車のいったいどこにそんなに乗ったんでしょう?子ども達が人形として乗ったのでしょうか?



「明治になって、一般住民のものとなった。最初は本町に1つあったが、他の町内(仲町、裏町、板屋町)にもでき、しばらくたって遠見と新港も作り、大字三佐に人形山車が6台になる、それから大字海原に4台、大字家島に3台でき、三佐校区に13台を数える様になった。」


考察:他の言い伝えによりますと、仲町が一番古いということなのですが、一体どっちがルーツなのでしょう。




「氏神様の御神幸のお供をする様になり、山車には上段に人形を乗せる様になりました。三佐に人形師(三浦氏)が居た関係かも知れません。」

考察:その昔は人形を乗せてなかった。人形を乗せだしたのはわりと後期になってなんですね。ほ−。じゃー昔は人形山車を一体何と呼んでいたのでしょう?ただの山車?


「終戦後は一時中断したため、海原も家島にも山車はありますが、曳いてはおらず、今は大字三佐だけ氏神様の大祭に、御神幸(四月廿八日、廿九日)に参加しております。」


考察:この資料はそうとう古いですね。当然です、昭和51年ですから。現在では海原も家島もちゃんと山車を曳いております。をれにしても御神幸の日の標記の20が廿とは泣けます。




「各町内の青年は、若連中と呼びます(本町なら本若連中)、役員は若長、取締、頭取、宰領、会計、後見、計11名です。」


考察:これは各若連で違いがあります。どこの資料から計11名もでましたかねー?ちなみに大若は若長は青年長(または年長)と呼んでおります。人によっては若長より青年長という呼び名の方が正統だと申しております。また、宰領が居ず、進行長呼んでおります。会計の下に会計補、雑役の当番長が居ります。後見は役付きではないんじゃーないですかー?あくまでも後見なんですから。




三佐太鼓の打ち方は…打始め/本番/大坂/本番/廻り/本番/打切り…の5種類あります。この太鼓は、去る昭和48年NHKが放映する最初の『大分おおぶろしきこぶろしき』に出場し大変好評を博しました。」


5種類くらいですかね。わたしは太鼓山車の地区なんでよくわかりません。大坂の「さか」が、阪ではなく昔風な坂なのがいいですね。




昔から伝わる由緒あるこの三佐太鼓と、人形山車は文化財として永久に残す必要がありますので、保存会を結成するように目下準備中であります。皆様の御支援をお願い申し上げます。


考察:文化財として残すための保存会?ときた!こんな勢いが昔もあったんですね。ははー、恐れ入りました。しかし、この考えはぜひ受け継いでいきたいものですね。



「昭和51年3月吉日  各区長連名、各若連中一同」
「区長は1区後藤範男、2区河村新一、3区菅秀之助、4区神矢持、5区幸久男の各氏」