臼杵藩「家嶋」(よじま)の成立

 ●何時も三佐のこどばかりで、家嶋(よじま)のことを話さないと片手落ちだという気が致しますので、今日は家嶋のことを少し申し上げて見たいと思います。今日このお話しを申し上げますと、それくらいなら少しうちにも資料があるということで、資料が出てくるとよいと思います。我々がこれ迄、大分市史を繰って見ましても、それから大分県史にも、家嶋の資料というのは殆どないのです。地元の資料は地元にあるかも知れまぜんけれども、私はまだ知りません。

 ●これまで大分県の歴史とか日杵藩の歴史、そういう史書を見ながら、かすんでいたそれを何とか資料を集めて、今日家嶋のことを申し上げて、岡藩時代の三佐、臼杵藩時代の家嶋を一線に並べながら研究していきたい。その口火を切ることが出来たらと、そう思って敢えて「家嶋の成立について」という大きなテーマを掲げました。けれども、そういう事情ですので何かかゆい処に手が届かないなあ、という気がされるかも知れませんが、ご勘弁願いたいと思います。

 ●三佐の時も前に申しましたけれども、家嶋だけをこう見ても一向に様子がわかりません。やはり、臼杵藩という藩がどういう形で成立して来たのか、そしてその中で、この家嶋が占めた歴史的意義というのはどんな位置だったのか、こういうふうに見ていきたいと思います。

 ●結論から言いますと、岡藩の三佐、臼杵藩の家嶋、ほぼ同じような重要な役割を果しています。

 ●臼杵藩の領地は大野郡では野津、三重のほぼ東半分位、この大野郡が入りまして臼杵藩というのは出来上っているわけです。そうしますと、野津町、三重町方面から臼杵に年貢を運ぷよりも、大野川を下って家嶋まで持ってくるのが一番便利がいいわけです。そういう意味で前回岡藩の川船で犬飼から三佐までのお話しをしましたけれども、同じように臼杵藩では、これは野津になると思いますが、吐合(はきあい)という処があります。犬飼のちょうど向かい側です。この吐合(はきあい)から船でこの家嶋まで、年貢米とかいろんな物資を積んで下って来ておりました。そういう観点からこの家嶋は非常に重要な位置にありました。結論を先に言ってしまいましたが。

 ●では、臼杵藩という藩は何時、どういう形で成立したかということなんですが、文祿二年(1593)大友吉統(大友宗麟の子息)が改易になり(大名が首になることを改易といいます。大友吉統は朝鮮の役で失敗して改易になりました)そして豊後を大友氏から豊臣秀吉が没収しました。豊後の国全体が秀吉の蔵入地、すなわち秀吉の直轄領になりました。

 ●豊後の国は何か大きな歴史的節目節目では、必ず中央政府の直轄地になっています。これは、不思議なことだと思いますが、それだけ豊後の占める位置というのが重要だったんだと思います。その前は源頼朝が僅か一年程ですが直轄地にしたことがあります。

 ●秀吉が直轄地にしたのも、古い大分県の歴史書の類を見ますと、大友氏の復活をおそれて秀吉が豊後を抑えたという言い方をしていますが、それは間違いで、豊臣秀吉からみたら当時の大友氏なんかは、そんなに恐ろしいカじゃなかったのです。父親の大友宗麟なら恐ろしかったかも知れませんが、子供の吉統というのは、秀吉から見たらとるに足らない大名だったように思われます。ただ、秀吉には家柄というのがありません、農民出身ですから。ところが大友氏は鎌倉以来の守護の流れを汲む、日本でいう名門中の名門、その名門をいきなり葬るのは悪いからということで、豊後一国を一時期大友吉統に預けるというつもりで与えていたわけです。ところが大友吉統が秀吉の目から見たら豊後を守り抜くような力がない、だからこれは没収してしまえということになったと思います。そして、文禄三年(1593)に豊後を数名の大名に分けました。岡に中川が入りました。臼杵には福原直高、彼は豊後に来る前は大名じゃなかったのです。豊臣秀吉の馬廻り衆といいまして、テレビとか映画なんかで戦国時代のものを見たら、気を付けて見て下さい。大将の側に奇麗な鎧を着た武士が、(相談役という重役じゃないんです)そうですね、ちょっと若い青年武士が十人か二十人ずっと周囲にいます。そして何かあると「お前行け」というかっこうで伝令に走って行くのを馬廻り衆といいます。いってみれぱ伝令、昔の陸軍にはそういう将校がいたんじやないですか。いわゆる青年将校です。

 ●文禄二年に豊後を没収して蔵入地にした時に、そういう馬廻り衆五、六人を豊後に派遣し、大名として任命しました。そのうちの
一人、福原直高を臼杵に配置したわけです。

 ●福原直高は石田三成の妹婿であったわけです。そういうことで秀吉の引きがあり、また石田三成の口ききもあったかも知れません。

 ●その時、臼杵が、これは二つの説があるんですけど五万石という説と、別に六万右で入って来たんだという説があります。これは、はっきりしません。残念ながら五万石なり、六万石なりの領地の範囲は、何処からどこまでかというと、その資料が残っていないものですからわからないのですが、だいたい考えられますのは、津久見のほぼ北半分位、それから臼杵、野津、三重地方、それから大分郡の鶴崎あたりが海部郡ということでその中に入っていたんじやないかという気がします。そこのところは正確ではありませんが。

 ●ところがこの福原直高、秀吉側近の三成の妹婿だということで秀吉からも大事にされ、三成も、もう少し大きい大名にと考えるわけですね。そういうことで慶長二年(1597)に福原氏は府内城に移ります。府内藩に移るということは旧大友時代の豊後の中心地に移るわけですから、臼杵時代に比べたら、福原直高は大変な優遇を受けたということになります。これも石田三成という後ろ楯があったということになるわけです。福原氏が臼杵から府内に移りますと、臼杵には太田一吉という大名が入ってきました。これも秀吉の馬廻り衆であって、大野郡の代官であったようで、代官から臼杵の大名に取り立てられました。これもニつの説がありまして、六万五千石だという説と、半分の三万石という、これもはっきりしませんけれども、そんな形で太田一吉が臼杵城に入って来ました。

 ●ところが、慶長五年(1600)になりますと、中央では関ケ原の合戦がありました。豊後では、石垣原の戦いがあったわけです。この時、岡藩の中川氏に大友時代の重臣田原紹忍と宗像掃部が、与力として中川氏の配下にいましたが、関ケ原の合戦の時に、中川は徳用方につくという約束になっていました。そこに大友吉統はひそかに豊後に帰って、豊後を復活したいということで、石田三成方について、石垣原で旗揚げをしました。このため中川氏の与力の田原、宗像など大友氏の旧臣が、ひそかに大友吉統の陣に参加しました。これは旧主君の陣に集まったからいいわけですが、中川の旗印を石垣原に立てたわけです。だから、中津城の黒田如水が、徳用家康に中川は今まで徳用方につくという約束だったけれども、石垣原で大友氏を助けている、旗印が立っているから、あれは裏切ったと報告しました。その情報が岡城の中川の耳に入ってきました。中川氏は知らない間の出来事です。身の証しを立てるためには、この臼杵城の太田一吉を攻めました。太田氏は福原直高、石田三成などとともに西軍ですから、その太田一吉の立てこもっている臼杵城を、攻め落とすことで身の証しを立てようということで、中川氏が臼杵城を攻めたわけです。

 ●その時、佐賀関を通って攻めて行く組と、それから宇目を通って臼杵に攻めて行く組と二隊が編成されました。佐賀関でも大変な合戦が行われております。そして、臼杵城をめぐって、日杵の町はこの時悉く灰に帰した、焼けてしまったようです。太田一吉は勝ち目がないというので城を捨てて逃げてしまいました。それで中川の証しは立ったわけですが、この石垣原の合戦に続く一連の戦争で福原直高も府内城から追放になり、太田一吉も臼杵城から追放になったわけです。

 ●やや技道が長くなりましたが、関ケ原の戦いの後片付けということで、慶長六年ですが、豊後の再配分が行われました。その時臼杵に入って来たのが、美濃大垣の稲葉貞通です。これは、去年NHKの大河ドラマでありました「春日の局」の「おふく」さんの従兄になる人です。江戸時代初期の臼杵藩というのは、こういう次第で稲葉氏が慶長六年に臼杵にはいりました。そして稲葉氏の臼杵藩が成立したわけです。

 ●稲葉氏が臼杵に入ったのは、慶長六年十二月二十五日となっております。稲葉氏は、昨年の大河ドラマでも紹介されておりましたけれども、この稲葉の元の姓、本姓は越智氏という。伊予の河野氏、河野水軍といいますその河野水軍の分家筋に当たる。その越智氏が戦国時代に美濃の国に、岡に上って、斎藤道三に仕え、その斎藤氏が織田信長から滅ぼされると織田信長に仕えました。織田信
長が本能寺の変で倒れると、豊臣秀吉に仕えました。

 ●この貞通は日杵に来る前は、美濃国郡上八幡城の城主でした。ここにいる時に関ケ原の合戦がありまして、稲葉貞通は徳川方の東軍についたわけで、これが幸いして戦後臼杵に入ることになりました。石高がどれくらいで入って来たか、これも二説ありまして、四万石で入ったという説と、いや六万石だったという説がありますが、はっきりしません。範囲はどういう範囲だろうかといいますと、海部郡の北部の方、大野郡の東の方、それに大分郡若千ということで臼杵稲葉氏の四万石乃至六万石が出来ます。

 ●四万石と六万石、二万石も違うじゃないかということになりますけれども、例えぱ、同じ慶長六年に関ケ原の戦いの恩賞ということで、肥後の加藤清正が肥後一国をもらった例を考えてみましよう。秀吉時代、加藤清正は十五万石の大名だったわけで、肥後国のほぼ北半分を領しており、南半分は小西行長が領していました。ところが小西行長は西軍についたが、加藤清正は東軍についたということで、小西行長の所領は没収されて、肥後一国を加藤清正が恩賞としてもらえるということになりました。ところが加藤清正は天草の方は、小西行長がキリシタン大名でしたので、キリシタンが多いということで、天草の方の二万石余りを辞退しました。その代わり豊後の中に天草に見合う二万石くらいが欲しい、そうすれぱ瀬戸内海に出るのに都合がよいし、上方に通ずる道がひらけるわけです。徳川家康もほかの時ならうんと言わないでしょうが、加藤清正が、西軍についたのと、東軍についたのでは随分違うわけです。うっかりして加藤清正が西軍についておれぱ、家康はひょっと負けたかもしれない、そういうことがあるので、ちょっと無理な要求かも知れませんが、家康はよかろうということで、豊後のうちで二万石与えることになりました。それが白丹、久住の直入郡、大分郡の野津原それから大分郡から海部郡にかけての鶴崎、高田、大在、坂の市、佐賀関これらを合せて約二万四百石くらいになりますけれども、これを加藤清正に与えました。そうしますと岡藩の中川氏は、久住、白丹はもともと中川氏がもらっていた土地なのです。それで、徳川家康は、中川氏には直入郡の東の方の阿蘇野を与えました。それまでは中川の預かり地で、代官として支配していた処です。

 ●このように稲葉氏の方も、もともとはこの関ケ原の戦いの前は、鶴崎も太田が支配していたんじやないかと思います。太田氏のあとに稲葉が入ったのですから、当然鶴崎、大在、坂の市は稲葉の領地になる筈ですが、そこは加藤清正の領地になるので、替地が欲しいということになります。その替地として、戸次の庄十五ケ村、それから丹生の方が与えられたのでしよう。その時、ひょっとしたら家嶋も肥後領の中に入る筈だったのかも知れませんけれども、稲葉が強く要求して家嶋は残こすということになったんだと思います。それは何故かと言いますと、最初に申しましたように、大野郡の野津、三重あたりから年貢を運び出したり、或は産物を運び出すのに臼杵まで山越えで行くよりも、川を下る方が楽だ、このルートは確保しておきたいということで、家嶋を飛地として残したと考えられます。

 ●お手許のプリントの家嶋の場所を矢印してありますが、大野川下流域にポツンと家嶋だけが臼杵領であることを考えますと、取り残されたというより確保したというのがよいのかも知れません。

 ●そこで臼杵藩家嶋がはっきり成立するのが、慶長六年と考えられます。これでこのルート(吐合=家嶋)が確保できたわけです。吐合とちょうど向い合わせに犬飼があり、犬飼と三佐を結ぷ岡藩のルートもあります。この大野川は、岡藩と臼杵藩にとっては産物を運ぷ重要なルートだったことがわかります。

 ●この吐合に行きますと港跡があります。犬飼は犬飼大橋の右下の方に、川岸に石を敷き詰めたこの部屋より広い桟橋の跡があります。そしてその石畳みの中には船を繋ぐ、五十センチ位の大きな繋柱(ピット)があります。

 ●一方、吐合ですが、此処は大変な崖です。犬飼は船を横付けすると、甲板にそのまま荷物が積めるというくらいの高さですが、吐合は崖の下に港がありました。崖の上に港跡という記念碑も建っておりますが、そこから下に降りるには、本当に九十九析りの路を降りなけれぱなりません。米を担いだ人は何回か川に落とし込んだろうなあ、と思うくらい急な処です。この吐合に野津川上流、或は三重の方から物資が運ぱれ、川船に積んで家嶋まで下って来たわけです。

 ●では家嶋の港はどこ辺にあったんでしょうか。何か家嶋の、三佐の町並のような形で絵が残っていないでしょうか、或は記録がないでしょうか、皆さんで探して欲しいという気がします。

 ●いま阿部さんが「三佐の新港の向に《港》という小字があります」と教えてくださいましたが、そういうのをこの地図に書き込んでもらうと、今は埋め立てられたりしていますから、仲々わかりにくいのですが、復元の手がかりになるかと思います。

 ●川船は構造上、海に出られませんので、荷物を積み替えて海に出ます。岡藩はこの三佐で荷物を積み替えたし、臼杵藩は家嶋で積み替えたわけです。

 ●臼杵の領内でとれた米の大部分は、臼杵藩の大坂の蔵屋敷に運びました。その臼杵藩の米が大坂で銘柄米として大評判になりました。皆さん方にお配りしたプリントの左側の方に表がコピーしてありますが、慶長十年(1608)の内検地目録帳というのが臼杵藩にあります。これは臼杵藩の石高がわかります。七千石程が戸次から大野川流域でみられます。それから、その後内検という検地で実測して見たら、面積が余計出ましたという、そういうことで、足してだいたい五万四百石位になる。そして江戸時代を通しますと臼杵藩五万四百石ないし五万五百石です。

 ●そして、その村組を見ますと海部郡に臼杵、丹生、津久見があります。大野郡が野津、三重です。そして大分郡に吉野、戸次、高囲、家嶋があります。印でもつけておいて下さい。森町組、これは組で呼びます。そして慶長十年の段階では家嶋村という形で森町組に属していない独立した村だったことがわかります。村扱いをされているのは臼杵藩ではここだけです。

 ●ところがその翌年(慶長十一年)に「惣御高頭御帳」という帳面があるんですが、これを見ますと森町組というのがありまして、その中に森町と小池原村、家嶋村があります。そしてほかの組は一組六ケ村、七ケ村からなっていますが、森町組だけはご三ケ村と書いてあります。これで、慶長十一年以降幕末まで、家嶋は森町組の庄屋のもとで行政が行われていたということがわかります。

 ●それでは、この家嶋は一体どれくらいの広さだったんでしょうか。そして石高はどれくらいだったのでしようか。「慶長十一年惣御高頭御帳」で見ますと家嶋は百三石四斗三升八合となっていますが、ここに面白いことがあります。内九十七石地震崩とあります。百三石というけれども、その中九十七石というのは本当はないんだ、帳面づらは百三石だが実際はそんなにないんだという記録です。そして、やや時代が下りますが、正保四年(1647)の「正保郷帳」という記録になりますと、この地震崩れの記述がなくなって家嶋畠方七十石と書かれています。それから元禄十四年(1701)赤穂浪士の討ち入りの年に作られた「元禄郷帳」も七十石です。

 ●それから江戸時代後半になりまして、天保五年(1834)「天保郷帳」は七十一石九斗四升六合と若千増えております。次に明治初年の「旧高旧領取調帳」によりますと、六十石四斗五升七合と少なくなっています。他の村は「旧高旧領取調帳」では村高は多くなっている例が多いのですが、家嶋の場合は少なくなっております。海岸部は流されたり、水害とかいろんなことがあるので、減ったのだろうと思われます。

 ●三佐の歴史も大分県の歴史を繰って見ましてもなかなか出て来なかったと同じように、家嶋の歴史も臼杵藩の歴史を繰って見ても臼杵本藩のことはわかりますが、家嶋の様子はなかなかわかりません。

 ●それから先程地名等の話しも出て来ましたが、三佐、家嶋について、昔から言い伝えの地名やちょっとした言い伝えなどがあると思われます。その地名のほかに町筋なり道筋でもいい、ここは何があったという具合に書き込んで行く作業をしていきますと、意外と家嶋はこんな範囲まで広がっていたんじゃないか、ここが中心になっていたんじゃないか、などということもわかって来るんじゃないかと思います。

 ●これからの話は付録ですが、いま大分県の米を「とよむすめ」ということで全国に売り出そうとしていますが、江戸時代はそんな売り出しをしなくても、大坂の人がちゃんと豊後の米の中では臼杵米と岡米それに中津米がうまいんだ、良い米だということで、ランク付けをしてくれていました。大坂の食い道楽といいますけれども、全国二十四銘柄が選ぱれ、その中に大分県関係が三銘柄入っていたのです。これは注目していいと思います。このため日本列島の北の方に盛岡という所がありますが、盛岡藩では江戸時代何回も「豊後稲植付禁止」という法令を出しています。皆さんご存じの様にもみまきをして苗代をし、田植えをする。秋になって穂が出る迄は何稲かわからないですね。盛岡藩の農民はいくら禁止令が出ても知らん顔をして豊後稲を植えたのです。藩の方では、豊後稲ばかり植えてけしからんということで法令を出した。何故豊後稲を禁止するのかと言いますと、どうもこれは晩稲だったようで、盛岡は冬が早く来る、だから、晩稲では秋が長い時は倍々の収量があるけれども、冬が早く来た時には収穫が少なくなるので植付禁止としたようです。藩はとに角どんな米でもいい、予定額の年貢が収まらないと困るわけです。だから、年貢を取るために早稲、中稲、晩稲を夫々分けて植えよ、そして早くとれた米から順に年貢を完納せよという指導をするわけです。農民達はそうはいきません。やはりうまい米を作りたいと考えたんじゃないかと思うんです。これは私の想像ですが。これが豊後稲植付の背景です。

 ●ではどうして豊後稲が植えられるようになったのでしようか。盛岡藩の別の法令で「お伊勢参りを申し出た者には許可をする、お伊勢様という特別のお宮だから許可するが、ついでに京都等の見物をして来るのはけしからん、だからお伊勢参りがすんだらすぐ帰って来い、京都見物等するな」と何回も言っています。しかし、盛岡から伊勢まではるぱる歩いてお参りしたついでに京都まで足を延ばそうということは人情としてあったと思います。そして京都なり大坂で食べた米の中に、これはうまいという米があったのだと思います。

 ●大坂の堂島という処は全国の米が集って、こめ市場が立っていました。市が済んで役人が引き上げると、堂島の商人達は箒と塵取りを持って、(今と違って俵ですから可成りもみがこぼれるわけです)それを集めて、自分の食糧にもするけれども、売って生計をたてる人達もかなり居たようです。それくらい大量の米が扱われる。それをお伊勢様に参った人達が臼杵米か岡米かわかりませんが、これは豊後から来たこめで、食べてみたらうまい、ではその種もみを少し分けてもらおうということで持って帰ったのが豊後稲ということになったのではないかと思います。その豊後稲が植付禁止になっても植えたということは、おそらくその豊後米がうまいから、農民達は植え続けた。年貢で取られても、少しでも残った米はうまいのがよい、ということになったものでしよう。藩の方は味はどうでもよい、一定の年貢が入って来れぱよい、だからそんな銘柄米なんか言わずに他の稲を植えろということになったものでしょう。

 ●私の考えでは、この豊後稲はどうも岡米だろうと思います。何故なら竹田から久住にかけては高冷地です。盛岡の方も緯度が随分高いので豊後稲がその気候に合うとすれば、高冷地で生産された岡米の方が合ったかも知れないと思うからです。

 ●いずれにせよ、この大野川を下って来て、この三佐か家嶋から積み出された米が大坂で臼杵米、岡米として銘柄米になり、その何れかが盛岡まで持って行かれて豊後稲として植えられたと考えると、歴史というのは実におもしろいなあと考えているこのごろです。

 ●続いて付録の(二)ですが、前に古文書が貼ってありますが(江口英雄さん提供)これは襖の下張りになっていたそうですが、これは何かと言いますと「天罰起請文前書之事」と読みます。江戸時代キリスト教は禁止でした。正月から三月の問にかけて九州の各藩は、長崎まで役人を派遣して踏絵の青銅板を借りて、領内をその銅板を持って廻り、踏み絵をさせました。隠れキリシタンが居るかどうか調べるわけです。村では宗門帳を作りました。これは「一向宗多光寺」門徒であると書いています。「一、三浦四郎衛門、女房、同人娘トク、同人娘フキ」と読めます。これは戸籍台帳と同じで、宗門毎に家ごとの入間全員の名前が書いてあります。奉行所の役人がこれによって一人一人呼び出し、役人の前で銅板を踏ませました。これの目的は隠れキリシタンの発見で、その銅板を踏めないか、或は知らん顔して踏んでも顔色が変わっていないか、などを注意していたのです。

 ●村の入が全員無事通ったとしましても、なかには心を鬼にして踏んだが、本当はキリスト教信者だったということもあり得るので、起請文を書かせるわけです。「若し隠れキリシタンであったなら、如何なる罰を受けてもいいです、日本国中の大小の神祇八幡大菩薩、愛宕大権現等諸仏夫々の御罰を受けてもかまいません」という約束事の起請文です。この文句は平安の頃からほぼ同じ文言がつかわれています。例えぱ村の人達が同盟を結んだり、何か取引をした時でも裏切りませんという時にこういう誓約の文を書いて署名をするという、し方をしていました。また、この文書は享保十八年ですので江戸中期といっていいでしょう。「長崎よりお借り寄せあそぱされ侯切支丹お改めの踏絵踏み申す判形帳享保十八年丑三月十一日」ということで湯浅伊太夫支配所の踏絵の記録です。

 ●また、これは(同じ時)「総男女合せて百五十四人内男八十三人、女七十一人と書いたが間違いありません」という責重な史料です。享保十八年(1733)と元文元年(1736)の文書ですね。

 ●それから地券と書いたのが八枚あります。江戸時代は田畑売買禁止の法令が出されていました。それが明治になってそんな制限は無くなりました。そして土地の所有を証明したのがこの地券です。

 ●「大分郡三佐村○○番地
     字牛淵 一、畑二畝九歩 持主 ロ ロ ロ ロ
       地価八円四十銭 税金二分(百分の二)」とあります。

 ●地価を決めて百分の三、のちに二・五に減額税金として納めるわけです。

 ●それからこの文書は三佐港御船手として寛政九年当時勤務していた人達の名前が出ています。それから三佐港にいた岡藩の船の名前の一覧表にしたものです。竹田公民館長をしておられた北村清先生が調べられたものです。参考にして下さい。

 ●後略、、、