柴山両賀と勘兵衛重成



 ●前略、、、 

 ●柴山両賀、勘兵衛という親子はどんな人だったのでしょうか。およそのことは皆さん方はご存じだと思いますが、実はこの柴山氏は、当初は津山氏を名乗っていました。

 ●名前の両賀は一両、二両の両と、賀正の賀を書いた史料や、終了の了の字と賀を書いた史料があります。後に柴山というふうに苗字を替えるわけですね。この苗字を変えた経緯はどういうことだったのかと言いますと、ちょうどいまNHKで「信長」が放送されていますね、そして信長が足利氏の最後の将軍義昭を奉じて京都にはいったのを思い出して下さい。実はこの将軍と柴山両賀すなわち津山氏は関係があったのです。永禄十一年(1568)足利義昭将軍のとき、津山氏は河内の国所領を貰っている将軍直属の家臣でした。その後、将軍義昭と信長は対立し、ついに義昭は信長によって京都から追放されました。天正元年(1571)のことです。

 ●津山氏の系図には「義昭公没落」と書いてあります。津山氏はその後柴山両賀と名乗って京都から堺に移り住んでいました。浪人したわけですね。ところが、その後織田信長の配下で豊巨秀吉が段々と成長して来ました。柴山両賀はしかるべき大将に家臣化したいと考えていたようです。そして豊臣秀吉と明智光秀の戦った山崎の合戦で大活躍をした、中川清秀に注目しました。この人はいい武士だと。当時中川氏と柴山両賀の間は、全く無関係だったのですけれども、「良い武士を求める」という両賀の気持ちが中川氏と柴山両賀を結び付けることになりました。そして文禄四年(1595)に柴山両賀は正式に中川氏の家臣になったわけです。

 ●岡藩における柴山両賀に関して言いますと、船奉行を勤めていましたが、慶長五年(1600)佐賀関で戦死しました。前回お話したと思いますが、中央では関ケ原の戦が行われ、豊後では別府石垣原の合戦がありました。それに関係して中川氏が臼杵の城を攻めるということになったわけですが、そこで柴山両賀が手の者を率いて、中川氏の一部隊として佐賀ノ関経由で臼杵を攻めた時に佐賀関で合戦があったわけです。

 ●その佐賀関合戦で両賀は戦死したわけです。この柴山両賀には男の子がありませんでした。そこで両賀は娘に柴山勘兵衛を娘婿としました。

 ●そこで勘兵衛は義父の両賀と共に中川氏の船奉行の任に当りました。この柴山家はこれから後、代々中川氏の参勤交代の時の船奉行を勤めました。そして、この両賀の戦死は慶長五年ですから、いわゆる瓜生島伝説でいう沖の浜の沈没から五年後ということになります。実際には瓜生島という島はなかったと考えられますし、証明する史料は知られていません。沈んだのは秀吉が中川氏に預けた今津留村の沖ノ浜と呼ぱれた船着き場一帯であろうと考えられますが、中川氏は後にこの今津留から三佐に船着き場を移すことになりました。このため尋声寺も今津留から三佐に移ることになり、柴山両賀のお墓も移されたものでしょう。そして後に勘兵衛も菩提寺の尋声寺にまつられるということになったのだと思います。

 ●先日舘長さんと尋声寺をお訪ねして本堂を拝ませてもらったのですが、ここの本堂にあがってびっくりしました。皆様方ご存じでしょうけれども、あそこの壁には中川氏の船に付けてあった丸い紋章の「柏の紋」と、「十字の紋」などがたくさん壁に張り付けてあります。

 ●最初はなんでこんなに、同寺にあるんだろうかと思って考えてみましたが、柴山両賀と勘兵衛親子のお墓があることと考え合せてみますと、同寺は船奉行柴山氏の菩提寺であることから、おそらく明治の廃藩置県の時に、もう参勤交代で船が不要になったため、参勤交代で使っていた中川氏の船の舳先に付けてあった中川氏の紋章を外して、この船奉行の菩提寺であり、また乗り組員の菩提寺でもあったであろう尋声寺に奉納したと考えられるのです。このため寺の本堂の壁に各々船の舳先にとりつけてあった紋章を奉納したものと考えられます。

 ●ちょうどお訪ねした時、住職さんが居られたので、「はずして見せてもらいたい。あの裏には各々船の名前が書いてあるか、あるいは船頭の名前が書いてあると思われますので、いつか見せて下さい」とお願いし了承をいただきましたが、私が忙しくてその後お訪ねする機会がもてず気ぱかりあせっています。

 ●竹田市の歴史資料館、(皆さん方竹田にお出になった時ご覧になったと思いますが、)資料館にも幾つか中川氏の参勤交代の時の船に付けてあった紋章がありますね。しかし数が少ない。おそらくご座船の紋章だけを竹田に持って帰ったものでしょう。その他のお供の船のものは皆こちらの尋声寺に奉納されたものだろうと思います。 あれは、是非三佐の皆さんの手で守っていただきたい三佐の文化財ですね。三佐の素晴らしい歴史を物語るものです。

 ●三佐の文化財であり、お寺の文化財でもありますけれども、大分県の文化財でもあるわけです。文化財に指定はされていませんけれども、素晴らしいものです。そこでお手許にお配りしました資料を中心にしながら、先程お話ししました中川氏と柴山両賀の出逢い後の動きを追ってみたいと思います。最初の史料の一枚目の右側に豊臣秀吉朱印状という三種類の、ちょっと活字の太いのがあります。これは原文が漢文になっております。本当は読み下しの方がいいんですけれども、読み下し替き直す暇がございませんでしたので…。

 ●これは実は岡藩の中川氏初代になります秀成(ひでなり)が秀吉から豊後岡六万四千石転封命令を受けたのが、文禄二年です。「その方こと来春豊後へ仕わされ候、しからぱ家中の者ことごとく召し連れまかり越すべく候、自然逐電の族これあらぱ、追って先々ご成敗を加えられるべく候、」播州三木城から岡藩に移るということになると、「豊後の片田舎に行くのはいやだ」と言う家臣も出て来るだろう。けれどもそういう者が出て来た時には成敗する、だから家来の者をことごとく連れて行けということですね。「豊後国直入郡二万九千三十八石、同じく大野郡内三万六千九百六十五石都合六万四千石を扶助せしめる」すなはち六万六千石を与えるので、これを支配せよというものです。そしてこの内一万六千石を無役、すなはち六万四千石の中で一万六千石は、中川氏が個人的に使ってよろしいというわけですね。

 ●そして「残りの五万石をもって軍役相勤むべく侯」すなわち「五万石で家臣をかかえよ」という秀吉の朱印状をもらいました。

 ●その翌年の文禄三年に中川氏はこの豊後にやって来ました。けれども豊後にやって来た時に、三番目の史料ですが、「豊後国大分郡内今津留村四六二石五升のこと沙汰をとらしめ、之を運上せしめ船着きたるによりて御代官仰せつけられ候也」すなわち「中川氏に今津留村四百六十石余の村を預ける。だからその船着き場である今津留村の代官に任命する。」ということです。

 ●このときの中川氏の岡入部の様子を「中川史料集」によって見ましょう。文禄三年正月二十五日に播州三木城を出発して豊後の国岡城に向う。総勢おおよそ四千余人の家臣とその家族などの一団ですから、大所帯ですね。このため大船五十隻に分乗して、今津留港に着船しました。この時の船と転封経費ですが、「柴山両賀金銀船等を進上」とありますので、柴山両賀が「私が船を調達しましょう。経費も私が一切面倒をみましよう」と申し出たわけです。素晴らしいスポンサーがついたわけですね。そして、八月廿五日今津留村の沖の浜に上陸したのです。

 ●この後、柴山両賀は竹田の城下町の町造りもしています。柴山両賀は船を操ったりすることと同時に、こういう特殊な土木の技術ももっていたようですね。

 ●上のことから考えますと、両賀は今津留村の沖の浜の港湾整備もしたと考えられます。そして、中川氏から岡藩の船奉行に任命され、勘兵衛がこれを世襲し、その後岡藩の船着き場が、この三佐に移った後も、代々、同氏の子孫が船奉行を勤めたことは先程お話しした通りです。