三佐の歴史年表
西暦 | 年号 | 記事 | 備考(といってもただ、わたしの感想です) |
1196 | 建久7 | 大友氏の所領となる | |
1240 | 仁治元 | 海潮寺をたてる | 三佐のお寺の中で一番古い創建とは聞いていましたが、、、やっぱりそうなんですね。 |
1285 | 弘安8 | 三佐は高田荘に属する | |
1382 | 永徳2 | 家嶋の天満社をたてる | へー、野坂神社より古いんですね。なんと「しま」が島ではなく、嶋です。 |
1500 | 明応9 | 野坂神社創建、漁夫弥藤次が海中より霊石を得て祀る(1525年までの間) | 中村の方だとお聞きしておりますが、、、 |
1577 | 天正5 | 高田荘間別帳に藤島がある(三佐は藤島の内) | 昔、三佐は藤島と呼ばれていたと母より聞いたことがあります。 |
1582 | 天正10 | 柴山両賀が度々戦功をたてる(1600年まで) | |
1593 | 文禄2 | 家島の検地帳の写に文禄2年の年号がある | |
1596 | 慶長元 | 大地震、大津波のため大混乱をなす(瓜生島が沈む) | 瓜生島ってありましたね。実際に今の西大分沿岸付近に出島様であったらしいです。 |
1598以前 | 海潮寺を三佐薬師堂にたてる | へー、昔は薬師堂に海潮寺があったんですね。 | |
1609 | 慶長14 | 安養寺を再興 | 再興ということは、創建はずっと昔ということになりますね。うーん、、、謎だ。 |
1614 | 慶長19 | 三佐の船奉行柴山重成が死ぬ(44才) | |
1615 | 元和年間 | 釘宮風塵が海原に塩田をつくる(風塵という地名が今もある) | |
円光寺の前身円龍寺、府内領辻本より三佐に移転造営される | ん?辻本とはどこでしょう?我が家の菩提寺である円光寺は昔円龍寺と呼ばれていました。 | ||
尋声寺をたてる | |||
1623 | 元和9 | 三佐、海原が岡領となる | |
1626 | 寛永3 | 3月、三佐のお茶屋が出来る | |
1655 | 明暦年間 | 野上筑後が家島の庄屋となる | |
1652 | 承応年間 | 海潮寺薬師堂より、浦町の現在地に移転 | |
1660 | 万治3 | 熊沢藩山が中川公にまねかれ三佐港に着き竹田へ行く | |
1661 | 寛文年間 | 円龍寺を円光寺改称する | |
1667 | 寛文7 | 久世ケ瀬橋を作る | |
1685 | 貞亨2 | 八坂祠の修営ができる | 野坂神社のことかな? |
1691 | 元禄4 | 三佐、海原の治水工事をなす | |
1693 | 元禄6 | 三佐のお茶屋が火災となる | |
1699 | 元禄12 | 9月27日、僧済宋死ぬ、済宋は三佐の人、俗称池永 | へー、この頃から「池永」姓があったんですね。 |
1705 | 宝永2 | 4月8日、三佐の大火(218軒焼ける) | |
1711 | 正徳元 | 9月14日、三佐の大火 | |
1723 | 享保8 | 中川久忠等が三佐沖で逆風にあう | |
1756 | 宝暦6 | 船火事がある(船倉庫、船26艘、人家等焼ける) | |
1764から1780 明和〜安永 |
刀鍛冶藤原冬貫が三佐に居住する | でました!三佐住の刀鍛冶職人。著名な刀が多かったそうですが、現在はその確認が難しいそうです。 | |
1747 | 天明7 | 正月、円光寺火災にかかる | 大変なことが起きていました。除夜の鐘騒動で火事になったのでしょうか? |
1810 | 文化7 | 2月、伊能忠敬が三佐、鶴崎地方を測量 | 記念石碑が現在の薬師堂備中にあります。 |
1822 | 文政5 | 閏1月28日三佐で踏み絵が行わる | 「みさ」はキリスト教の「ミサ」からその名がついたという説も聞きました。が、信憑性は薄いと思われます。 |
1853 | 嘉永6 | 1月5日、後藤其道(通称清八)死ぬ | |
1871 | 明治4 | 7月廃藩置県、家島は臼杵県、三佐・海原は岡県になる | おー、臼杵県、岡県ですよ! |
11月に大分県成立、三村共大分県になる | 喜んだのも束の間、4ケ月後にまとめられました。でも一つでよかった、よかった。 | ||
1874 | 明治7 | 1月三佐小学校を創立(中川氏お茶屋跡) | |
1877 | 明治10 | 家島に大火あり(8、9分通り罹災) | |
1881 | 明治14 | 家島に三佐小学校の分教場をつくる(1・2年生を収容) | |
1884 | 明治17 | 村役場の位置と所轄決まる、役場は三佐村におき、三佐、海原、家島3村を所轄する | |
1885 | 明治18 | 11月13日山村富太郎が県下で初の紅綬褒章を受ける | |
1888 | 明治21 | 4月組合立高等小学校を鶴崎に設置する(鶴崎、桃園、三佐、明治、高田) | |
木本橘巣(画家)死ぬ60才 | |||
1889 | 明治22 | 三佐、海原、家島の3村合併、三佐村となる | この年に、ついに合併しましたか。 |
1893 | 明治26 | 10月13〜15日大洪水がある | |
1894 | 明治27 | 日清戦争に多数出征する(1895年まで) | |
1897 | 明治30 | 三佐漁業組合設置 | |
1900 | 明治33 | 9月、明治・大分水路ができる | |
半田鶴次郎が海苔養殖に努力する(1936年まで) | この方のお陰で三佐は海苔で有名になったんですね。時は明治時代です。 | ||
1901 | 明治34 | 家島文教場を廃止する | |
三佐小学校西校舎木造2階建をつくる(5月22日竣工) | |||
1904 | 明治37 | 日露戦争に多数出征する(1905年まで) | |
1910 | 明治43 | 5月21日家島からの通学児童12名渡し船が転覆し溺死する | こんな悲しい事故が過去にあったんですね。 |
1911 | 明治44 | 2月、再び家島分教場を開く | |
1912 | 明治45 | 7月、三佐小学校南校舎木造平屋建4教室新築 | |
1914 | 大正3 | 12月、三佐の耕地整理ができる | |
4月1日、大分〜幸崎開通、鶴崎駅開業 | |||
1919 | 大正8 | 大分県体育大会で三佐小第2位になる | |
9月3日、河村幹雄が理学博士をとる | |||
1934 | 昭和9 | 三佐小南校舎木造2階建4教室新築 | |
1936 | 昭和11 | 三佐小北校舎木造2階建10教室新築 | |
1938 | 昭和13 | 家島に大火がある(42棟焼失) | |
1940 | 昭和15 | 皇紀2600年を記念、旗行列、提灯行列 | |
1941 | 昭和16 | 4月1日、三佐村立三佐国民学校と改称 | |
1943 | 昭和18 | 三佐村が鶴崎市と合併、鶴崎町立三佐小になる、三佐漁協と家島漁協合併、三佐漁業会 | |
9月20日大洪水 | |||
1947 | 昭和22 | 4月1日、6・3制度実施、鶴崎町立三佐小学校と改称、鶴崎町立北中学校を三佐に設置 | なにー?三佐に小規模ながら中学校があったんですねー! |
鶴崎町からの分村運動起こる | |||
住友化学前から中州にかけて広い道路が造成さる | |||
1948 | 昭和23 | 5月25日三佐小PTA発会式 | なんと、PTAができたのは昭和23年、戦後すぐなんですね。 |
三佐小ミルク給食を開始 | |||
木造の鶴三橋が中洲との間に架かる、寺司〜三佐線開通 | |||
1949 | 昭和24 | 三佐漁業会を改称し三佐漁業協同組合となる | |
1950 | 昭和25 | 分村問題公聴会開く、鶴崎町との間で解 | |
1951 | 昭和26 | 南北中学校統合し鶴崎中学校となす | |
10月16日井上長太郎死ぬ、地理学者、浦町に生まれ、慶応大学で教鞭をとる | こんな偉い先生が三佐にもいたんですね。 | ||
1952 | 昭和27 | 弥栄橋の改修なる | |
三佐小講堂落成(6月2日) | |||
1954 | 昭和29 | 3月31日鶴崎市が発足(鶴崎、明治、高田、松岡、川添各村が合併) | |
6月30日家島橋架け替え工事完成 | |||
1956 | 昭和31 | 三佐小学校運動場拡張 | |
1957 | 昭和32 | 大分バスが大分〜三佐間運行開始する(4月) | |
1958 | 昭和33 | 海原橋ができる(木橋) | この橋覚えていますよ。子どもながら狭くて車が通るとギシギシいって、とにかく恐ろしい橋でした。 |
臨海工業地帯埋立起工式、旗行列 | |||
天皇、皇后両陛下ご来県、鶴崎市内ご視察 | |||
1959 | 昭和34 | 4月17日三佐漁業権補償妥結 | わたしが生まれた年です。 |
1960 | 昭和35 | 2月臨海工業地帯港湾浚渫工事始まる | |
国勢調査で903世帯、男2196人、女2406人、合計4602人 | |||
1961 | 昭和36 | 5月家島開閉橋できる | 懐かしいですね、撥ね上げ式のこの橋。よく家島まで遊びに行ってました |
6月27日丸川を埋立て新運動場造成工事、37年7月31日完成 | |||
1962 | 昭和37 | 鶴三橋コンクリート橋に架け替え | |
11月12日九石大分製油所起工式 | |||
11月25日鶴崎地区電話が自動式になる | |||
1963 | 昭和38 | 6市町村合併し大分市となる(大分、鶴崎両市、坂ノ市、大南、大分各町、大在村) | |
7月12日大分鶴崎地区新産業都市指定 | |||
三佐郵便局新築移転 | おしみや近くの板屋町の三叉路にあったのをよく覚えています。 | ||
太刀振神社境内に戦没者慰霊殿建立 | わりと新しい建物だったんですね。戦後だから当然といえば当然ですが。 | ||
1964 | 昭和39 | 三佐小新校舎第1期工事完成 | |
2号地に昭和電工進出決定、協定に調印 | |||
9月15日三佐公害対策委員会結成大会 | |||
1965 | 昭和40 | 3月三佐小新校舎2期工事完成 | |
4月全児童新校地の新校舎に移る | |||
8月7日三佐小プール落成 | |||
三佐巡査駐在所新築移転 | |||
県道鶴崎〜三佐線完工(3月) | |||
1966 | 昭和41 | 3月10日三佐小移転新築落成式 | |
大分国体開催(第21回国体) | |||
1967 | 昭和42 | 4月1日九電火力大分発電所着工 | |
昭和電工大分石油コンビナート第1期工事着工 | |||
1968 | 昭和43 | 通学学童のため三佐歩道橋完工 | |
1969 | 昭和44 | 3月4日県、市と九電火力の間に公害防止覚書を交す、3月17日発電所火入れ式 | |
6月4日石油コンビナート完工式 | |||
大分火力発電所運転開始 | |||
1970 | 昭和45 | 三海橋完成、臨海道路に架橋、臨海産業道路着工(47年3月舗装完成) | |
1972 | 昭和47 | 市は市内小中学生及び三佐住民の健康調査 | |
三佐小体育館完成 | 卒業式の数日前に完成しました。ということで、ここで授業を受けた記憶はありません、、、残念ながら | ||
11月12日家島の背後地整備計画を県、市と家島自治会の間で調印 | |||
5月20日東警察署現在地に移る | 私が中学1年生ですよ。結構昔だったんですね、移転は。 | ||
大分市内7農協が合併、大分市農協発足 | |||
10月太平洋沿海フェリー乙津泊地より営業開始 | ありました、ありました。どでかいフェリーでしたねー。しかし、いつの間にかなくなってしまいましたが、、、 | ||
1973 | 昭和48 | 1月30日松原緑地造成工事起工式 | |
5月10日住友化学から刺激臭ガスが流る | |||
9月8日家島地区住民集団移転を陳情 | |||
2号背後地整備計画に対し県の回答あり、区画整理手法による事が最良 | |||
1974 | 昭和49 | 三佐小開校100周年記念行事(1月20日) | |
県、市は住友化学に大気汚染防止法適用、全面操業停止命令(5月11日) | |||
松原緑地の完工式(6月7日) | |||
住友化学農薬製品倉庫が大火災を起こす(8月12日) | ありました!大爆発。夜、兄と見にいきました。映画みたいにドラム缶が何度も空中に飛んでいましたね。 | ||
三佐公民館建設(住友化学寄贈) | |||
11月から1区から4区まで区画整理説明会を市によって開催 | |||
1975 | 昭和50 | 乙津川浄化の為工業用水放流実験と水質調査 | |
国勢調査、1380世帯、男子2810人、女子2681人、合計5491人 | |||
1976 | 昭和51 | 3月7日日油化学の無水マレイン酸製造設備加熱、爆発炎上 | わたしが高校2年生ですね。?この火災はちょと記憶にないですね。 |
大分石油コンビナート地域防災連絡協議会が発足(3月11日) | |||
大分市立三佐幼稚園新設(4月19日) | |||
乙津川環境整備促進期成会に改称 | |||
1977 | 昭和52 | 海原地区区画整理推進区民大会(11月13日)大分市議会海原の陳情を採択 | |
1980 | 昭和55 | 12月14日三佐南区画整理事業推進協議会発足 | |
国勢調査、1516世帯、男子2493人、女子2552人、合計5045人 | |||
1981 | 昭和56 | 区画整理事前調査開始(7月より) | |
1983 | 昭和58 | 12月13日三佐土地区画整理事業公告 | |
1984 | 昭和59 | 三佐南区画整理事業はじまる | |
1988 | 昭和63 | 萩原〜三佐線バス運行開始(10月10日) | |
1990 | 平成2 | 国勢調査、1428世帯、男子2301人、女子2456人、合計4757人 | |
1991 | 平成3 | 12月18日三佐区画整理地区が都市ガス供給地域指定として認可さる | |
1992 | 平成4 | 三佐郵便局区画整理のため現在地に移転新築(3月) | |
1993 | 平成5 | 市立三佐幼稚園区画整理のため現在地に移転新築 | |