中川氏の参勤交代



 ●野坂神社の絵馬を中心にしながら、中川氏の参勤交代の話と、それに伴い豊後諸藩はどんな形で参勤交代をしたのだろうか。城か ら江戸迄、江戸から城に帰るまでどれくらいの日数がかかったのだろうか。そんなことを若千話してみたいと思います。

 ●最後に大分市の方が、これからいろんな形で文化財の絵馬の保存策を講ずると思いますが、やはり地元の方々も、これはどういう方法で保存したらいいのかということを、しっかり考えて頂いたらいいと思いまして、歴史を研究している者からみた保存策という問題提起をさせて頂きたいと考えております。

 ●野坂神社の参勤船団絵馬は、皆様ご存じの様に中川氏が三佐港に入港する時の絵なのです。それから鶴崎の剱八幡の絵馬は、熊本藩の参勤船団絵馬で、剱八幡に本物がありますが、写しが鶴崎公民館のロビーに掲げてあります。それから佐賀関の速水日女神社にもあります。

 ●しかし野坂神社の絵馬は、剣八幡の絵馬にそん色を感じさせない、すぐれた絵馬です。 この野坂神社の絵馬は、どういう経緯で作られたのでしょうか。奉納したのは、十代の中川久貴の時です。時代は文化十年(1813)ですので、江戸時代を前半と後半に分けますと後半です。さらに後期を前中後と分けると後期の始めの方ということになりま
す。

 ●絵馬の右端に「文化十」とあり次の一字は、色も字も剥げてなく、その下には「酉三月」とあります。文化年間の酉歳は十年ですから、一字欠けた処には《年》か《歳》があったと考えられます。

 ●左側に「豊後州岡城口従五位下中川修理太夫源朝臣久貴」剥げ落ちている一字は《主》でしょう。「岡城主従五位下中川修理太夫源朝臣久貴」となり奉納した殿様の名前もわかるわけです。

 ●絵馬の大きさは縦が約二米くらい、横が三米くらい、かなり大きいですね。絵馬堂の建物が小さいので、写真を撮ろうとしても余程性能の良い広角レンズのカメラでないと写らないですね。斜から録ったりすると絵がよくわからなくなり、写真の絵が斜めになってしまいます。

 ●ところで中川久貴が奉納したいわれによりますと、享和二年(寄進する二十五年位前になりますけれども、)参勤交代で帰って来る時に伊予灘で大変な暴風雨に遭い、そこで熊野權現に無事領国に帰れるようにという祈願をしました。そうして無事にこの三佐港に船が着くことが出来たので、このことに感謝して後に奉納することになったと伝えられて
います。

 ●その前にも久恒という六代の殿様の時にもやはり暴風雨に遭って、(これも伊予灘でしたが)無事に帰ることが出来たので、野坂神社の社殿を寄進したということもいわれております。歴代の藩主が航海の安全を祈願し、感謝して拝殿とか神楽殿などを寄進したということがいわれています。野坂神社の記録の中にそういうものが出て来るわけです。

 ●ところで本題にはいる前に、中川氏という岡城の殿様が何時頃からこの三佐を支配する様になったのでしょうか。このことにちょっと触れてみたいと思います。去年もこういう話をしましたので、去年から出席の方は若干ダブリますけれども、ご勘弁願いたいと思います。

 ●慶長六年(一六○○)の関ケ原の戦いで、徳川方について活躍した大名の中に肥後の加藤清正がおります。この清正が肥後から瀬戸内海に出て大坂、江戸に行くためには、九州の西側を廻って、関門海峡を通り瀬戸内海に出るよりも、陸路をとって、豊後を横切り瀬戸内海に出る道が欲しいということで家康に領地を願出たわけです。家康は、加藤清正は肥後の統一で活躍していますので、それに見合う恩賞ということで、豊後の国内に二万石を飛地として与えました。中川氏の六万四千石の中に含まれていた直入郡の久住、白丹地域を肥後の加藤氏に与え、さらに大分郡の野津原、鶴崎、大在、坂ノ市、佐賀関までの地域合わせて二万石としました。中川氏の六万四千石の中から久住、白丹地域を加藤氏に割譲しましたので、その代わりとして現在の直入郡の荻町が中川氏の所領になりました。それで関ケ原の戦いの後、岡藩七万石という領地高になりました。その時に、かつて秀吉から代官を命ぜられておりました今鶴も七万石の中に繰り込まれて中川領になりました。

 ●元和九年(1623)に今鶴の地を手離さなけれぱならなくなりました。それは、徳川家康の孫の松平忠直(一伯)という越前六十九万石の大大名が、幕府のお咎めをうけて、豊後の萩原に流されて来ました。今鶴のうちに萩原も含まれていたので、幕府は中川氏に「萩原を返上せよ。その代わり希望する所があれぱやろう」ということになりました。

 ●幕府の案としては萩原の替地として乙津港でしたが、第二案の三佐港に決定し、元和九年、三佐が岡藩領になりました。

 ●まず三佐港の整備が行われました。そして寛永二年(1625)に御座船の住吉丸を建造、船蔵(普段船を入れておく池)の整備を行いました。これが法華津さん方の前にあった丸池だったと思います。今は埋め立ててしまったが、丸い池、これは多分住吉丸、そうでなければ、それに次ぐ船を入れる船だまりでした。駅で機関車をぐるっとまわす転車台と同じように、船を入れてぐるっと回すために丸い池が必要だったのです。これと同じ池が肥後藩の丸池が鶴崎の絵図を調査した時に出てまいりましたので、それとわかるのです。

 ●寛永二年から三年にかけて三佐港の整備を行っております。それに合わせて久世ケ瀬の石垣の整備がされ、乙津川の主流を三佐の東に回すようにしました。その川の跡が現在、公園になっているのです。

 ●中川氏は前の今鶴の場合野津原を通り今市を宿場にし、今鶴に上陸してから今市まで六里位でしょうか、ここで一泊して現在直入町になっている神堤を通り、直入町の上野まで行き、上野の追分で肥後街道に分かれて、南の方に下り岡城に向かいました。

 ●しかし三佐は大野川の川口にありますので、大野川が使えるんじゃないかと考えるようになりました。調査して見ますと大野川の上流に犬飼があります。犬飼から下流の方は荷物を積んだ川船が行き来していたようです。その実情を見たわけです。そこで三佐港の整備に続いて犬飼港を整備するということになる。

 ●港を作れぱよいというのでなく、今あそこに行きますとこの部屋くらいの範囲に石畳が敷いてあります。荷物を積み降ろしする桟橋です。その石畳の中程に船をつなぐ、繋柱(けいちゅう・ピット)の役割をする石が残っています。

 ●このような港の整備とあわせて、犬飼の町造りが行われ、府内や鶴崎など各地から商人を呼び寄せ、犬飼の町が次第に出来上がりました。瀬戸内・畿内方面から荷物を積んで来た船は、三佐で川船に積み替えて犬飼まで物資を運ぷようになり、犬飼は何時の間にか岡藩の台所のような役割を果すことになりました。また岡藩の年貢米とか大豆などは犬飼の御蔵まで馬とか牛で運び、犬飼から三佐までは川船で積み出しました。

 ●中川氏は三佐港を得てからは参勤交代の多くは、犬飼までは陸路、それから川船で三佐まで下ってそこで一泊、風待ちの後、順風に乗って船出することになりました。

 ●では参勤交代はどうして行われるようになったのでしょうか。徳川氏が関ケ原の戦い後権力を持つ様になりました。それも豊臣時代の武断派といわれた大名が徳川氏に味方したから、関ケ原で徳川氏は勝ったのですが、そういう大名を野放しにしておいたのでは、 いつ徳川の転覆を考えないとも限らないでしょう。武断派の外様大名を含め全国の大名を徳川が自由に操作するためには、制度的にがんじがらめにしておく必要がありました。もう一つは、諸大名の財政が豊かであると、ひそかに船を建造したり、或は浪人を雇ったりして、徳川氏転覆を考えないとも限らないので、大名を財政難に追い込んでいく必要がありました。このようなことから参勤交代制度が考えられたわけです。

 ●寛永十二年(1635年)制度としての参勤交代を、大名は幕府から命令されました。三代将軍家光の時です。一年間江戸に出仕、一年間は領国に帰るという制度です。江戸では大名は禄高に応じて屋敷地を与えられました。大きい大名は上屋敷、中屋敷、下屋敷、中小の大名は上屋敷、下屋敷などとよばれる屋敷です。一万石以上が大名ですので、その数は二百五十〜六十人に達しています。そして「入り鉄砲に出女」が取り締まられました。それは「江戸に鉄砲を持ち込むことを禁止する。それから大名の奥方とか子供など、秘かに江戸を脱出して領国に帰るというような江戸から出て行くのを取り締まる」制度です。

 ●参勤交代では大名は随分経済的に苦労したようです。最初、参勤交代に「あまり恰好の悪いことは出来ん」ということで、肥後五十四万石や、鹿児島島津七十三万石、こういう大大名は少々人数を制限しても行列は相当なものになるが、一万石の大名は、二十人や三十人ではかっこうが悪いということになったのでしょう、石高の低い大名がかなり無理をして行列を編成して行くわけです。これは幕府が狙った通りになったわけですね。参勤交代だけで大名を財政的に追い込むことができるわけです。これで反徳川というようなことは言えないようになりました。

 ●「参勤交代は夏四月中に終れ」と命じています。現在の旧暦に相当しますから、春は一月〜三月、夏は四月〜六月です。四月は今でいう五月ですので、梅雨に入る前に終われというものです。そして西国地方の大名、特に九州の大名は何処に行くにしても船を使わねぱなりませんから、船で江戸湾まで太平洋に沿って行けぱいいじゃないかということになりそうですが、それは禁止、参勤交代をよそおって大勢の兵隊を連れて江戸湾に乗り込んで来たら困ります。従って西国の大名は兵庫、大坂までは船で来てよいが、そこから東海道または中仙道を通って陸路江戸に来いということになりました。

 ●寛永十二年に参勤交代の制度を打ち出し、一〜二回様子を見ていると各大名は、最初は見栄を張るわけです。そこでまた法令を出して「従者の人数近年甚だ多し、今後は相応に、すなわち大名の石高に応じて人数を減少すべし」という通達を出しました。

 ●現在の大分県関係の大名をみますと、中津藩十万石、行列は馬上十騎、足軽八十人、中間人足が百四十〜五十人位。岡藩、臼杵藩、五万石以上、馬上七騎、足軽六十人、中間人足百人。杵築三万五千石、日出二万五千石、府内二万石、佐伯二万石、森一万二千石ですが、五万石以下の大名は、馬上三〜四騎、足軽二十人、中間人足三十人ということに制限されました。

 ●ところが、東海道五十三次の宿場を通って行くわけですので、沿線の人達は、大名図鑑にあたるようなものを持っています。そして大名は旗印を立てて行くので紋処を見て、「あれは肥後の加藤、(後に細川になりますが)さすがに賑々しい行列じゃ」となるでしょう。それが一万石の大名が通ると、何処の紋所かということになるので、家臣達も随分気を使ったと思います。

 ●こんなエピソードがあります。本当かどうかわかりませんけれども、某藩一万二千石、江戸に行く時は余りミミッチイかっこうは出来ませんけど、江戸から国に帰る時、東海道を通ると駆け足で通るわけにゆきません。一日に六〜七里から十里位の処で宿泊したようですので、大変な経費がかかるわけです。そこで中仙道を通って帰ると、中仙道は人通りも比較的少ないので、殿様は駕籠からおりて、馬に乗って行列を走らせる、そして二泊するところを一泊でかせぐとか、そんなことをしたんだという話があります。これは特別な藩に限らず、多くの大名がそういうことをしただろうと思います。

 ●参勤交代のコース、日数はどれ位かかったのでしょうか。豊後では府内藩と杵築藩が譜代大名です。石高が低いので、戦争をすれぱ石高の多い方が勝つかもしれませんが、平和な時代では、石高の大小の格もありますが、譜代大名と外様大名はやはり格が違いました。

 ●府内藩と杵築藩は、府内の殿様が江戸に出府している時は、杵築藩の殿様は豊後に残って豊後の諸藩を監督しました。そして府内と杵築が交互に参勤交代する仕組みが出来ました。もう一つ、石高でいうと岡藩七万石、臼杵藩が五万石、その岡藩と臼杵藩も交互に参勤交代をせよということになったようです。それはこの府内、杵築を補佐するという役割を担わせたものです。豊後の組み合わせでいきますと、同じ年に江戸に行く、或は帰ってくるのは、杵築、臼杵、佐伯が同じで、府内、岡、日出、森が同じ年ということになっていたようです。

 ●岡藩と臼杵藩は石高が高いということで、豊後では重要な役割を担うことになりました。その証拠に徳川幕府が江戸前期正保四年(1647)全国の国絵図を作らせ、そして「郷帳」という村毎の、取れ高何石、水田何町、畑何町という調査をさせました。その国絵図と郷帳を作る作業が岡藩と臼杵藩に命ぜられました。早速岡藩と臼杵藩は連名で豊後諸藩に、これから国絵図と郷帳を作るから協力してくれ、地図の方は各大名毎に規格を決め、自分の国の地図を作って提出してくれ、と協力を要請しました。今日、臼杵市の図書館と竹田市の図書館に、この国絵図の下書きをしたものが控えとして残っています。この部屋に広げるとすれぱ一杯になる位の絵図です。そして一里毎に道の両側に一里のポイントを入れてあります。当時としては可成り詳しいものです。そういう作業が岡、臼杵藩に課せられるということで、岡藩、臼杵藩というのは豊後の中では重要な役割を果したことがわかります。

 ●豊後諸藩の参勤交代のコースはどのようなコースを通っていたのでしょうか。一番安全なコースと考えられるのは、中津、小倉を通って関門海峡を船で渡って陸路を行けぱ一番安全な気がしますけれども、これは日数がかかり過ぎるわけです。それと多くの大名の領地を通らねぱなりません。石高の多い大名は威張って通れるかもしれませんが、石高の低い大名の多い豊後諸藩は気が重い、それで船で行くことになりました。その船も五百石より大きい船は禁止されている、だから千石船なんか作られませんでしたので大変です。中津藩は小倉から関門海峡を通って山陽道を行くことが多かったようです。時々船で行っています。岡藩は山陽道を通るコースと三佐から船で行くコースとほぼ半々だったようです。その他の諸藩は総て船で行っています。そのコースですが、岡藩、臼杵藩、日出藩、佐伯藩、森藩はいきなり大坂迄直行で行くというわけにいかないんですね。港で風を待たねぱならない、風が途中でピタッと止んだら船が動かなくなると困りますので。まず安全なコースは四国沖に出て、いつも四国が右手に見える様な陸地沿いに進んで、瀬戸内海の東の讃岐の坂出を過ぎたあたりから瀬戸内海を横切って、兵庫か或は大坂あたりに船を付けるか、あるいは国東沖を回って山口県の防予諸島沖に戻り今度は中国地方を左手に見ながら陸地沿いに進むコースのどちらかを通って行くわけです。

 ●ではどの位の日数がかかったのでしょうか。佐伯藩では、一番日数の少なかったのが二十一日、日出藩の記録で二十二日、府内藩は二十三日、逆に最もかかったのは、府内藩の四十七日、岡藩の四十六日、日出藩と臼杵藩の四十二日があります。どうしてこうも差が出るかというと、佐伯藩と臼杵藩を例にとってみますと、佐伯港、或は臼杵港を出て一度佐賀関港に寄って風待ちをします。佐賀関で多い時は、一週間位参勤父代の船団が留まったこともあったようです。風が出たというので漕ぎ出して行って伊予沖に出るわけです。 日出藩の場合も深江港で一週間位船の上で風待ちをしていることもありました。そういうことで日数を要しているのです。

 ●陸に上れば上ったで、さきにお話した某藩の様に、江戸に行く時はしずしずと行くが、帰って来る時は一日でも日数を稼ごうとします。今日の状況で仮りに一泊五千円の宿に泊まるのを止めれば、一万石でも三十〜四十人いますから、相当辛抱できることになります。参勤交代は大名にとって省略することのできないものですし、見栄も張らなけれぱならない、道中での祈願もする。各地の神社に絵馬を奉納したり、航海の安全を祈願するために神社の新築もしなけれぱなりませんでした。

 ●三佐の野坂神社も中川氏にとっては、参勤交代の安全を祈願するそういう社になったわけです。中川氏が野坂社に最初、貞享(じょうきょう)元年(1684)改修、元禄十五年(1702)大木が倒れ拝殿が壊れたので修復、七代中川久通の時、明和二年(1765)神社が火災にあい再建、十代久貞の時、享和二年に絵馬奉納と拝殿を新築しました。参勤交代の絵馬を奉納ということだけでなく、参勤交代の道中の安全を祈願するという意味もあります。

 ●絵馬は文化財となり、絵馬堂があってひとまず保存されていますが、今後、保存していくためには考えねばならない点が多分にあります。実は和歌山の白浜温泉に江戸時代の錦絵が展示保存されていますが、黒いカーテンで覆われています。見学者はそのカーテンを開けて見学し、すんだら閉めることを要求されます。それくらい神経を使わねぱ絵画の保存はむつかしい面があります。ガラスの展示ケースの中にコップに水を入れて置いてあるのを見たことがあると思いますが、それは湿度を保つためのものです。こうして細心の注意を払っても年数が経てば少しずつ色がさめてくるわけです。野坂神社の絵馬は立派ですが、南向きで部屋がむっとするくらい暑い、それは色が次第に浮き上がってくる原因になると思います。

 ●一昨日九重町の町史を作るため旧家を回って古文書を見せてもらいましたが、或家では三百点位持っていました。あいにく外は霧雨でしたが、同家の人はこの位がちょうどよい、昔の人から「夏から秋の十時から三時までは乾燥が激しく、紙がばりばりに乾燥するので、虫干しは三時以降にせよ」といわれている、という話を聞かされました。此処にも絵馬保存上の参考になる点があります。野坂神社の絵馬はかけがえのない文化財です。地域をあげて保存に取り組んでほしいものです。