三佐村庄吉外の琉球国に漂着 |
●安政六年(1859)に三佐村の船頭庄吉外の者が漂流、後日その漂流過程を奉行所に報告をした資料が京都にありまして、それを見せて貰う機会に恵まれましたので、それをもとにその漂流経過をお話しをして見たいと思います。
●その資料によりますと、豊後の国岡領三佐村福吉丸船頭庄吉外船手三人と書いてあります。
●安政六年といいますと幕末ですけれども、福吉丸は、十一月二十六日に菜種子油を積んで三佐を出発、長崎表に向いました。
●そして、年が変わりまして、萬延元年申の二月二十二日に長崎表を出帆、三佐に帰る筈だったのですが、野茂崎(この資料には野に茂る崎とありますが、現在は母という字を書いて、野母崎となっています。長崎港を出ると左手に細長く南にのびる長崎半島の先端に野母崎があります)その「野母崎と申す処に於いて北東の風強く吹き出して」、ここで時化(暴風雨)になり、そして「同夜五ッ時分」と申しますので、これは午後八時ですが、「帆柱を切り捨てる」と記していますので、時化が相当なものだったことがうかがえます。
●そして二十七日まで洋中を西南方向に漂流したようです。東支那海の方向に流れて行ったわけですね。
●「二十八日朝島影を発見、何方とも相知れず」漂流していて島影が見えたけれども、何島というのかわからないということです。「風波烈しく右島へも寄せ難くそのまま流さる」
●そして「三月三日少し風波和らぎ、辰巳の風日相成る」すなわち南東の風になったので帆柱を切り捨てておりますから「帆桁をもって帆を掛け」「申酉の方向に走行」すなわち西西南の方に進んで行く。「も早や十日余りに相成り飯米、水共に払底」そこで「乗組員五人絶食」最初は五人だったんですけれども、無事帰って来たのは庄吉外三人です。それで、三月三日の段階では五人ですね。
●「三月七日夜五ッ時分、(午後八時時分)一人相果て申し候」この人が庄吉さんの息子です。疲労と絶食で亡くなったわけです。
●「三月八日朝四ッ時分、(十時頃です)島を相見掛け、彼方に向い、(島の方に船を進めて)「夜五ッ時分右島に着き仕り上陸、岩下に出水有り、少し元気を得」ました。それまで何日か絶食していたが、水を飲んで元気になり「夜を明かし」ました。
●「三月九日朝、遥かに岩の上に人を発見、手招きをす。その人来る。尋ねたが「言葉相分り申さず」と書かれています。琉球、すなわち沖縄だったわけです。当時言葉があまり通じなかったんですね。
●手ぶり身ぶりで何とか通じたので、「一人が右の人の案内で川田村と申す処まで」行きました。琉球の人でも総て日本語が分からないわけではなかったのです。それで後でわかるんですが川田村という処だったのです。「右村方より十人ばかり乗船、食物持参」すなわち漂流民だということで食物を持って来てくれ、乗組員の介抱をしてくれました。
●「少し言葉の分かる人有り、琉球国の内車島と申す由、役人の指図で、所持の衣類、諸道具持ち出す、三月十日右衣類、諸道具調査川田村に右役人同道にて差し越し」(川田村の村役人の、おそらく役宅に行ったんでしょう」「三月十二日迄滞在」
●「三月十三日案内され久志浦と申す処に着く、当地役人外両三人出席、漂着の次第取り調ベ、三月十七日那覇泉崎へ旅宿仰付らる」すなわち琉球王国の那覇の泉崎という処に案内されました。そして「毎日賄方御叮嚀、在番高橋様より目録相添えて下さる」琉球国といいますけれども、島津領ですから、島津藩の、高橋という藩士が目録を添えて下さった。何を下さったかというと、「被下され物品々覚、一、煙草十巻、一、園田紙四束」(この当時、紙は非常に貴重なもので、一束は百枚ですので、四百枚下された)それから「元結二十曲、鬢付八形」おそらく瓶か何かに入っているんでしょう。それから「手拭四つ、一、梅干臺重、(重箱か何かに入っていたのでしょう。但し琉球国には梅御座なく候よし」琉球国には梅がないので、おそらく鹿児島から此処に持って来ていた物でしょう)
●それから「鮮魚二尾、酒十盃、但し一盃三合三勺のよし」そしてその左側に「〆めて、右高橋様より下され、鹿児島表より御在番御奉行様のよしに御座候」と記しています。高橋様という武士は鹿児島から来ている奉行であるという話だということです。
●それから更に琉球の国王からも下された物があるのです。国王様より頂戴した品々ということで、「泡盛二十五盃入一壷、但し一盃三合三勺の由」ということですから、三合三勺掛け二十五盃ですから八升二合五勺です。それを一壷、「宮古留(染)上布惟子(ドンス)四枚」とあります。国王様から見舞いとしてこういうのを貰ったということです。「約百四十日泉崎に滞在」しました。「六月二十五日順通丸に乗船するよう仰渡さる」やっと鹿児島に帰る船便の順通丸という船に乗って帰れという申し渡しがあったのです。そしてその時、国王様より船中用として頂戴した品々を見ると、「白米、味噌、酢、醤油、薪、野菜、肴」などがあります。
●船は今のような客船ではありませんので、臨時に乗船する者の賄いがついていませんので、これを船に乗っている間賄ってやれということで、船頭に渡してくれたということです。 「六月晦日泉崎を出発」六月二十五日船に乗ったけれども、風が悪かったので三十日まで港にずっといたわけです。そして「七月五日秋目浦に着船、同所に上陸。七月七日夜伊佐々町に一宿」そして「八日車島に着く」最初に流れ着いた処です。そこに庄吉達の乗っていた船があるわけです。「本船の儀、(即ち私達の乗っていた船)破船に相成り御法の通り焼却」漁師さん達は難破した船はそのまま捨てるのではなく、焼却するというルールがあったことがわかります。
●帆道具、綱、櫓四丁などは、焼くのは勿体ないので、「琉球方に入札払に成下さる」使える物は入札するからはずせということだったのでしょう。その結果、丁銭十八貫文という高値で落札されました。「私(船頭庄吉)伜惣太郎、数日絶食三月七日相果申し候に付、車島と申す所で役人衆の指図で葬方仕、其の後、国王様より御僧一人差越され御回向下さり石塔まで建て下さる」とありますので、至れりつくせりですね。
●島津藩から岡藩に、三佐村の庄吉外漁師が漂流しているのを助けているから受け取りに来いという、おそらく通知があったものと思います。 「漂流人受取大野兵蔵殿、(これは岡藩の藩士です)外三佐御矢倉岩津辰蔵、三佐村大庄屋加藤弥一郎、上下六人、八月五日三佐を出立、肥後を通り差越す」肥後街道を熊本に出て、鹿児島に陸路で受け取りに来たわけです。「八月十一日鹿児島に着、十二日〜十六日滞留」そして十六日朝、漂流人庄吉外三人をこの人達が受け取るわけですが、その間に、その右にちょっと小さく書きましたが、「一かすていら大箱入、一ようかん大箱入、右鹿児島町年寄中より惣太郎初盆に付見舞として下され侯」とあり、鹿児島でも大事にされています。そして十六日、漂流人庄吉外三人が岡藩の役人に引き取られて、八月十七日鹿児島表を出立、日州(日向)を通って帰国しました。帰路は日向を通って陸路で帰って来たわけです。
●その時「御家人二人付添、(島津藩の武士が二人)日州高岡御堺まで二十七里の間、荷馬三疋、乗馬二疋、人足一人御差出し下さる」そして「止宿、昼賄まで一汁二菜の御賄下さる。且、鹿児島表滞留中は一汁二菜又は三菜と、日々泡盛等も下さる。漂流の者にも一汁一菜又は二菜を下さる」とあり、鹿児島藩から手厚い持て成しをうけたことが分かる。「八月二十五日漂流の者を召連れ帰着」ということで、前の年の十一月二十六日に三佐を出発しましたので、ちょうど九ケ月ぷりに三佐に帰って来たというわけです。
●報告書は「右は荒々書上申候、委細之儀は大野兵蔵殿より御書上相成居申侯、以上」と結んでおり、この報告書は萬延元年の九月に三佐村大庄屋加藤弥一郎が三佐村庄吉ら四人の話をもとに書かれたものであることがわかります。
●右の漂流記で、三佐村の漁師さん達は、参勤交代の時の船手を勤めるだけではなくて、いろいろな荷物を積んで方々に出かけていたことを知ることができます。《なお、この講座の後、工藤治美さんが、船頭庄吉さんの子孫であり、同家に庄吉さんや、漂流中に死亡した子息惣太郎さんの位牌がまつられているという報告をうけました》