三佐港の異国船防禦策 |
前略、、、
●公民館で作って下さった資料の「異船渡来之節三佐手当控」は、先程公民館長さんの御説明にありましたように、井上立木さんから提供して頂いた貴重な資料です。大分県史を書く段階でこのような資料があることを全く知りませんでしたので、大分県史の「岡藩」では「異国船防禦策」については書いておりません。そういう新しい史料が出て来ましたので、是非これを使ってお話してみたいと考えた次第です。
●異国船、すなわち外国船がやって来た時に備えて三佐で大砲を備えたということは、この史料が初見です。何のために異国船防禦などをしたのでしょうか。少し枝道が長くなりますが、ブリントの方を見て頂きたいんですが。
●徳川幕府が寛永十年(1633)に第一回鎖国令を出しました。この時は幕府の許可をもらった奉書船という船以外のものは、貿易の為に外国に出て行くことを禁止するという法律です。そして、寛永十二年になると、日本人の外国への渡航を禁止する。そして国外に住んでいる者も、日本に帰って来ることを禁止するという非常に厳しいものになって参りました。更に翌年の寛永十三年には、南蛮人即ちポルトガル人等との混血児の国外追放が命じられました。キリスト教禁止が背景にありました。キリスト教信者のことを、この頃、バテレンと言っておりましたが、バテレンの徒を訴えた者にはほうびを与える。こんな厳しいものが次々に出されて、寛永十六年に鎖国を完成し、外国船は全く日本にやって来ない、日本人も全く外国に行かないという状態が作りだされました。
●ただ例外として、オランダはこれはバテレン国ではないので、ここだけは貿易を認める。ただし、どこの港でも勝手に出入することを許可するのではなく、長崎の出島一ケ所だけを開港場として、日本にいるオランダ人も総て、出島に集めるということになりました。これが徳川幕府のとりました鎖国政策です。これからしぱらくの問、外国と交際はしなくてもよかったのですが、江戸中期以降になってきますと、産業革命の成果である商品市場をアジアに求め、アジアへの植民地獲得をめざしてョーロッパ諸国が進出しはじめました。
●その中で日本に比較的早く接近する様になったのは、ロシアです。ロシアは北の方からやって来ました。
●一方、西の方からは、イギリスがやって来ました。文化五年にフェートン号事件という、イギリスの軍艦フェートン号というのがオランダの旗を掲げて長崎にやって来たんです、そして長崎の出島に詰めておった商館員二人を捕えて、食糧とか水とかをよこせ、そうでないとこの二人を人質に取ってしまう、という大変な事件、徳用幕府はおおあわてで海防、即ち海の防衛対策を立てなきゃならんということになるわけです。
●そして続いて文政七年(1824)イギリスの捕鯨船の乗組員が常陸国の大津浜と、薩摩の宝島、これは鹿児島から沖縄の方に向かって吐喝喇(とから)列島という列島がありますが、その中に宝島という島があります。ここに乗組員が上陸して米などの食糧や牛を奪うという事件がありました。
●そこで幕府はこれに対する対応策として文政八年(1825)異国船打払令(無二念打払令)という外国船を打ち払えという強行策を出しました。日本はこれまで「海というのは日本という島を取り囲んでいる立派な堀である、だから少々のことで外国は攻めて来ない」というふうに無意識のうちに思っていたと考えられますが、よく考えて見ると、その海というのはヨーロッパの国々と直通した水路なんですね。昔の小学校の教科書に、松平定信が海岸の見回りをしている絵があったのを思い出して頂きたいのですが、海の防禦策が考えられねぱならなくなったのです。台場(砲台)の構築が急がれることになりました。実はこれが、この後お話します「異船渡来之節ご三佐港の手当」(手当というのは手間賃を出すあの手当でなくて、防禦の為の対策を立てるということです。)に発展してくるわけです。
●幕府は文政八年に「異国船打払令」を出して強行策をとりましたが、「天保の薪水令」という、この「異国船打払令」を取り消すような法律を出さねぱならない事件が起こりました。これは実は中国(清)で、アヘン戦争が起こり、清国がイギリスに敗れたのです。当時中国ではインド産のアヘンが秘かに吸われていることをイギリスは知り、イギリス船がこのアヘンを積んで中国にやって来ました。清国政府はアヘンの患者の増加を何とか防がねぱならないというので、清国の役人がその荷物を積んでいる船に乗り込んで、アヘンを没収してしまうという事件が起こりました。
●イギリスはイギリスで自国の国旗を掲げている船に無断で乗り込んで積荷を奪うとはけしからん、賠償せよということになり、清国と争いになって、アヘン戦争という戦いになったわけです。これが天保十一年から十三年にかけての出来事で、結果的には清国が大敗してイギリスの半植民地というようなことになりました。
●この情報が日本にも入って来ました。日本では天保十三年に、若し異国船打払令で、外国船争いを起こしたら大変だことになるというので、「天保薪水令」という薪や水を与えて体よく追い返せという法令に代えました。
●また一方、日本と永い問貿易をして来たオランダはこういう情勢を見て、「開国したらどうですか」とオランダ国王が勧告をしてきました。ところが徳川幕府はこれを拒否しますけれども、「外国船を打ち払え」或は「薪や水を与え体よく追い帰せ」というけれども、もし上陸して来たら困る、だから海岸の防禦策は充分に考えなけれぱならない、ということになったわけです。
●日本はその当時約二百六十の大名領に分れていました、ですから幕府は諸大名に命じて、それぞれ自分の領国が海に面している処では、その海の防禦を考えろという指示をすることになったのです。
また一方アメリカもその頃、日本に接近して来ました。天保八年(1837年)、日本の漁船が難破し漂流しているのをアメリカのモリソン号という船が救助をして、日本の乗組員を日本に送り屈けて来ました。そして浦賀にやって来ました。徳用幕府は日本は鎖国中だから、とその漁船の乗組員の受け取りを拒否しました。
●さらに今度は弘化三年(1846年)、約十年後ですが、ビッドルが浦賀にやって来ました。さらに嘉永六年ペリーがやって来て開国を要求しました。その翌年の安政元年再びペリーがやって来て、とうとう「日米和親条約」が締結、日本に無理やりに開国させました。以上が鎖国から開国までのあらましですが。
●ここで本題に入りたいと思います。この三佐港の防衛対策を書いた「異船渡来之節三佐手当控」の話に入りたいと思います。これは何時頃、どういう形で書かれたのかということですが、おおよその見当としましては、先程申しました「異国船打払令」が出された前後だろうというふうに考えられます。実はこの史料は何年に記されたものか書いてないんです。皆さん方プリントの五枚目だと思いますが、右端を見て下さい。「右の通り御座候也、慶応三年二月上旬之を改め写す」とあります。この慶応三年という年はもう異国船対策とか考える必要のない頃ですから、これはこの史料を井上松次郎が写した年であると考えられます。そうしますと原本は何時頃書かれたのかということになりますが、おそらくこれは先程の異国船打払令が出された当時のものと考えてよいと思います。実は似たような資料が日杵藩にもあります。
●その史料を紹介しますと、天保十四年に全くといっていい程同じ様な「異国船渡来之節手当人数弓銃等備書」という題名が書かれています。薪水令が出された翌年のものです。諸藩では幕府から砲台を作れとか、防禦対策をたてろといわれても、大砲を作るにしてもどんな大砲を作れぱいいのか、そして、それまでの諸大名が持っていた鉄砲というのは火縄銃です。一寸やそっとでは間に合わない旧式の鉄砲しか持っていないのです。そういう藩が急に大砲を作れといわれてもおいそれと出来るものじゃありません。こういうことで、命令が出されてから徐々に防禦体制が出来上がっていくわけです。さて、各地に砲台が築かれ始めました。そこでこの岡藩の三佐港でもやはり海の防禦の必要から、この史料にある様な対策が立てられました。「異船渡来之節御出陣御手当」は写す段階で異国の国が脱落したものと考えられます。
●では内容について述べることにします。
●「一、三佐奉行支配組、(三佐奉行の支配組はどういうことをするかというと)一、玉薬箱、同夫、一、先従士(かち)二人、江口常八、牧荒太、但し鉄砲これを持つ」この二人は火薬箱も持つけれども鉄砲もちゃんと持っているということです。「一、弓持壱人、河村萬吉」これから名前を読んで行きます。天保の頃の皆さん方の祖先の名前が出てくるかも知れませんが、敬称を略します。
●「一、目付鎗持壱人、佐藤藤太郎、御備頭 宗源八郎右衛門」「一、若党二人 内壱人但し鉄砲これを持つ」「一、草履取 手人」 これは源八郎の手の者ということです、「一、鎗持壱人 従之者 清五郎」こういう人がこれに従うということです。
●これを全部読んでいったら時問が無くなりますけれどもある程度読みながらいきます。
●それから「一、具足持壱人 同夫 〆拾人」が一つのグループになる。「一、手代書役(いろんな記録係ということでしょう)法花津泰冶」「一、使番弐人 川上金治 川上宗平」「一、御目付 甲斐円平 若党弐人 小嶋利平 法花津治郎 但し鉄砲これを持つ。
●一、草履取手の者一人 鎗持壱人 従者米太郎 具足持壱人 同夫〆六人」これが目付甲斐円平という武士に従う者です。
●「御船頭 湯浅角次郎 一、鎗持壱人 幸庄作 一、草履取 同夫 〆めて三人」「一、小頭弐人(班長級でしょう)菅藻一郎 原田庄作、鉄砲足軽組 菅忠次郎ほか十六名」。
●次に植木とありますので、竹田の植木からも、そういう何かある時は派遣されるということでしょう。〆めて三十四名「一、玉薬箱 三荷 一、犬飼鉄砲足軽組」これに犬飼鉄砲足軽組が加わる。「二十人三佐に出張の事」犬飼も岡藩の重要な港ですので、防衛の為の鉄砲組があったこどがわかります。
●その犬飼から鉄砲足軽組が、いざという時にはかけつける、そういうことになっていたようですね。それから「玉薬箱弐荷 岡の人」とありますから、おそらく竹田から派遺されて来る人でしょう。「岡嶋仁右衛門 峯田牧右衛門 野尻謙八」「一、壱貫目玉御筒」
●これがいわゆる大砲です。一つの玉が一貫目ある大筒ですね。「但し東より二番御台場 遠見」といいますから、おそらくあの遠見の辺に台場が築かれたのだと思います。そしてその台場が東から一番、二番という呼び方をしたのでしよう、それに玉薬箱弐荷を備えて一貫目の玉を打つ筒をそなえるわけです。「三佐手代 田仲孫太 囲仲寿市 外山市太郎」それから「武衛流」大砲の打ち方に流儀があったのですね。「壱貫目御筒但し西より弐番御台場 岡から右田貞吉 野尻龍之助 熊田飛太 三佐(から)岩津 福田 幸田三人」「一、十五栂」「ご」とも「ごう」とも読みますが、そういう呼び名の大砲だと思います。「岡(から)佐藤 武衛 野上、三佐(から)外村 河井 原田」これは何処に備えるか書いてありません。
●その次は「河野流 一、五百目御筒(前の一貫目のものの半分で、ちょっと小さくなります)但し西壱番御台場 岡(から)三人 三佐(から)柴山 衛藤 外山の三人」それから次は「無流」とありますから流派の名称はないのでしょう。「五百目玉御筒 但し東御台場」とあります。そしてこれは「岡(から)二人 三佐(から)竹内 工藤 山内 小嶌の四人」その次は「十二斤筒 但し東御台場 岡(から)三人 三佐(から)五人」その次に「三百目玉野戦」とあります。これは車輪のついた引っ張って歩ける野
砲でしょう。「車台御筒 岡(から)斉田 三佐(から)田仲 井上 菅の四人」同じく「三百目玉野戦車台御筒 岡(から)大野三佐 高橋 田仲 田仲」そしてさらに「五十目玉御筒弐挺、三十目玉御筒三挺、玉薬長持弐棹、荷内弐荷、柄杓(えびしゃく)弐
本、空俵但し番縄共に十五俵」とありますから台場を築いたりする時に砂袋がいるのでしょう。「鍬弐挺 玉薬箱、運送掛、小組頭工藤龍右衛門、矢倉河井彦右衛門」「帖付け御船両係」とありますから記録方も一緒にするのでしょうか。
●それから「陣小屋係」おそらく小昼掛けをしたり、そういう担当者がきめられていたのでしょう。「有人」とありますが、これは人の名前でなくて、水夫(かこ)役の者から当てるということです。「御武具係」(武器類を取りまとめる)「福田 原田 須郷 高橋、「陣中並に地場見廻り、但し目代役横目助 渡辺知介」「操廼り御屋敷留守居並役場見廻り 柴山、井上二人」「役所詰 幸田 工藤 須江、御目付留守居 野仲萬五郎、玄関造町廼り 小嶋 大塚、御門番所昼夜詰切 井田 小嶋、御穀方詰切 但し代り奉行役所にまかり出で候事(交代で奉行役所に出仕せよ)原田 牧、右之上番上役が荒木 寺田の二人、町口の番所詰切り 後藤 芝野 岩津 北村、川口番所詰切 後藤次郎兵衛、新小屋番所詰切 植木次兵衛、備中御石番所詰切 外山 渡辺、御船曾所出勤但し主役手当 後藤 船木 野仲、主役遠見番人 半田亀次郎、御船曾所出勤十八人、一、水主役(かこやく)水夫役の者百七十五人、
●一、出張同夫九十人、総数合せて弐百六十五人。但し壱番備御手当、但し同夫三佐中皆手当のこと」二六五人の人がいざという時にはそれぞれ配置につく、そしてまだ、ぞの外にたくさんいるので、そういう人達が後備えとして手当のこと、すなはち第二陣につけと、いうことです。「右の通り御座侯也。」
●おそらく第一陣は、三佐港に異国船が入って来た時には、これだけの者が配置に着く、その問に岡から本隊が来るし、犬飼からも来るので、それまで先ず防ぐ。
●「仲嶋龍右衛門 三佐役所詰之節手当左の通りの事」とありますので、仲嶋龍右衛門という人物は岡藩の侍代表格の人でしょうか。あるいは三佐の奉行か何かでしょうか。まだ調べていませんけれども、この人物が三佐に詰める時には次の様な手当をせよ、と指示されています。
●「一、変事之節御屋敷に於いて大砲三発打ち候事」何かあった時には合図の大砲三発、「但し右筒音承り次第急速」とありますが、早速という意味でしょう、とに角「早く申し継ぎ御屋敷にまかり出て、銘々受け持ちの役に相守り申すべく候」と、大砲の三発の音を聞いたらそれぞれの部署に着けということです。「一、検者並びに定廻りの者、間断無く見廻り撫よう申し出ずべきこと」見廻りの者は手落ちがないかどうか見て廻れ。「一、御番所向増番にはこれ無く候へども中いでとして四人宛操りまわし相詰め候事」補助として四人詰めさせること。「一、御家人並びに郡町婦女子等取驚散乱致すまじきこと」町中の婦女子に余り取り乱さないようにさせよ。「一、大砲筒音承り次第兵糧用意の事、但し町受」三佐の町の人達が大砲の筒音三発聞いたら、いざ、戦争ということで炊き出しをせよ、ということです。
●「一、諸品運送の者、兼ねて申し付けおくべく侯事、但し在受」農民とか町人は実際には戦争に参加しないのですけど、運送係として兼ねて申し付けてある様にこれに当たれということです。
●「一、諸方飛脚役之者之の外壱人宛郡町よりまかり出で侯事」町というのは三佐町のことです、町の外を郡といっています。三佐町だけでなく町外即ち郡部からも飛脚用の者が壱人宛役所に出て来いということです。
●「一、用船飛脚船等これある節は船長船割りのこと」ご用船とか飛脚船とかを出さなけれぱならない時は船長がその割り当てをせよ。「一、金銭持 会計係拾人 但し才領並びに持人かねて銀石方受持の事」戦争となりますと金がいりますので、会計係そして金庫番がいりますが、これはかねての指示通り銀石方が持てということです。
●「一、変事撫ようの寄り船の町家並びに新小屋筋へ乗り廻しの事」変事があった時には船を泊めてある処から新小屋筋へ乗り廻しせよということです。
●「一、用船飛脚船は兼ねて用意の事」これは飛脚船にするため準備をしておけということです。「一、武箱類は役の取り調べおくべき事」この史料には書かれていませんが、日杵の場合は弓とか鉄砲、「弓銃等備之書」とありますから、おそらくここに出て来たのは大きな筒のことだけでして、鉄砲と弓は書かれていませんので、この武箱というのは武器箱のことで、弓とか鉄砲の入っている箱を調べておけということです。
●「一、欠役その外受人等其筋より申し出ずべき事」補助人をそれぞれ予め申し出ておけというものです。「一、婦女子の者の宿に立退き申すまじき事」勝手に婦女子は家に立ち帰ったりすることなく一ケ所にまとまっておれということです。「一、役場並に銘々居宅用水手当致しおき侯事」戦争になれぱ火災はつきものですから、防火用水を備えておけということです。「一、運送米船用意の事」食糧を運んだりする船も用意しておけということです。「一、銘々草鞋用意致すおくべき事」昔の人はわらじは個人個人で作れるから作っておけということです。「一、職業にて他出致しまかり候者共、変事承り次第急速まかり帰るべき事」ここには、先程の村松先生の話に出てきましたように、三佐の大工の人達もいるわけです。そのため職業柄他出している者は、変事があった時には、それを承り次第急いで帰って来い。「但し帰宅次第そのまま役所へ届け出ずべき事」すなわち帰って来たら役所にすぐ帰って来たことを報告せよということです。
●「一、変事之節他出の者帰りつかまつらず、後日帰りまかり候者きっと咎(とが)を申しつけ侯事」変事があっても、まあ、遠いからいいわというようなことで帰らなかったことが、後日あきらかになった時には咎(とが)を申しつけるということです。「一、銘々御用につき心付け候義これある者其の筋へ申し出るべき事」銘々で用意して気付いたことがあったら、その筋へ申し出よということです。
●やや長くなりましたが、以上が「三佐港の異国船防禦策」の全容の概略です。豊後の諸藩が「異国船打払令」それから「天保の薪水令」を背景として海岸防備に当たった時、岡藩でも三佐で右のような海岸防備の体制を作っていたということを初めて井上さんの史料で知ることが出来ました。実に貴重な史料です。岡藩史の一頁に書き加えたいと思っています。ご静聴ありがとうございました。