三 佐 大 工
<棟梁、幸政治郎を中心にして>

 

三 佐 大 工

 ○皆さん今日は、堅苦しい話は抜きにして、本当の処地元の歴史は地元の方が一番知っておられる形が望ましいんで、私なんか県下あちこち古社寺を調べて歩く中で、三佐の大工さんの名前が出てくるものですから、これは、ちょっと三佐の方は誇りにしていいのじゃないかという処で、お話をしていきたいとおもいます。 先日、幸政治郎さんのお話を致しましたけれども、何故三佐に大工さんが多いかというのは、これはお船手で、参勤交替の時にここから江戸に向かって船が出て行く。その御座船の建造とか、修理とか、そういうものを船大工さん達がやるわけです。処がこれは何も三佐だけではないんです。瀬戸内海沿岸で船大工から出発して、お寺やお宮の仕事をしてきたそういう処が割りに多いんです。長州大工というのがございますけれど、山口県の、これも豊後の大工からその技術を勉強して、そして西国に行って愛媛、高知の堂宮の仕事をしている。土佐の人は土佐大工といっていますけれども、そういうように船大工が堂宮の仕事をしてきている例は瀬戸内海沿岸各地にあります。
 ○三佐も、岡藩の参勤交替の時の港として、お船手が栄えました。お船手が栄えるということは、船大工や船乗りが沢山住んでいたということです。これは士分扱いですから、武士として取り扱われております。三佐には水運に関係した技術の伝統がおそらく戦前までずっと続いてきたと思うんです。


別府と三佐大工

 ●つい、三月六日ですが、私別府で「ふるさと講座」というのを持っているのですが、別府の戦前の建築を、皆さんを連れて歩いてそのいいところを説明するんです。浜脇に上ん寺、下ん寺といって丁度二つ、線路の上の方にお寺が並んでおって、その上ん寺というのが崇福寺というんです。臨済宗のお寺で大分市の万寿寺の末寺ですが、このお寺さんの鐘楼が非常にいいわけです。非常に質がいいので住織さんの話を聞きますと、昭和十一年に、三佐の大工さんが建ててくれたということです。その方の名前が柴田虎鬼さんというんです。棟梁が、皆さんの中で隣の人の爺さんじやという話があれば、教えて頂きたいと思うんですが、吊り鐘も、その年に近庄六さんという浜脇の有力者がお寺に寄進したのが下がっています。吊り鐘よりお堂の方がずっとお金がかかったというお話で、その時、棟梁と一緒に山門を手がけた人が御手洗常夫さん、この人も町の助役までした人だそうで、やっぱり大工さんだったというお話です。それから鐘楼の柱の頭頂部に渡してある柱から突出した部分に彫刻を施し、だいたい鳳凰だとか、竜、獅子だとか、或は象とか、獏とか、そういう彫りものがあるわけですけど、それも三佐の人形山車を手がけた三浦さんという三佐の方が彫ったというお話なんです。これはもう、相当優秀な大工さん達が集まって一つの鐘楼を作ったのだと思います。そういうお話を聞いて、私やっぱり三佐にご縁があるんだなあ、と思ったわけです。その他別府の別荘や旅館建築には、多くの三佐の大工さん達が関係していると思います。



竹田の工匠と愛染堂

 ●だいたい岡藩に関係のあるお寺やお宮さんに三佐の大工さんが関係しているというのだったら、これはわかりますけど、もっとずっと広がりがある。別府の方ももっと調べれぱ三佐の大工さんが関係したお寺やお宮や旅館が出てくるんじゃなかろうか、そうするとこの三佐の大工さんの歴史というのは、江戸時代の初期からずっと続いていて、特に岡藩の建築に対して質量共に非常にウェイトが大きかったと思われます。

 ●「近世社寺建築の調査」というのがございまして、文化庁が大分県で江戸時代の建築を二棟、国の指定にしたわけです。その一棟が竹田の願成院といいますか、お寺さんのある処の愛染堂というお堂です。そして中津の薦神社といいまして大変由緒ある宇佐八幡に関係のあるお宮ですが、そこの神門が指定になりました。竹田の愛染堂は来年から修理にかかりますが、ちょっと雨が漏りまして、現在トタン葺きで、上覆いをかけておりますけれども、先日私竹田に用事があって行きましたら、文化庁の調査官が来ていまして、だいたい一億円以上はかかるだろうと話していました。建坪が十五坪です。十五坪で一億円ということは坪六百万円以上です。まあ、その位の内容のお堂だということで、二年継続で来年から修理にかかる。国が七割、県が一割、地元が一割、持主はお寺さんで檀家が少なければ大変ですから、おそらく市が市民に呼びかけて何とか作るんじゃなかろうかと思います。

 ●そういうふうで、江戸時代初期寛永年間ですが、初期の建物も全国的に見ても非常に少なくなって来ています。中川の殿様は、日光の造営奉行もしていますし、江戸城の建築にも関係していますので、向こうから棟梁さんを連れて来たという話なんです。それと宗作衛門という地元の棟梁と、日光の造営に関係した飛弾(ひだ)の工匠(たくみ)といいますけれども、優秀な棟梁を引っ張って来て、ジョイントといいますか、一緒に建てたのが愛染堂だということですから、非常に手のこんだ建物です。外もこってますけど、内部の色彩装飾が実に見事なんです、それが雨漏りで汚れて大変な状態で、建物の彩色をやり直したら素晴らしいお堂です。

 ●豊後高田の富貴寺が壁画で全国的に有名です。あれは平安時代のものですが、江戸時代の壁画として大分県の代表的なものとして取り上げればこの愛染堂、鴨居の上の小壁に天女の像がずっど書いてあります。それから梵字です。梵字というのは仏様を現しておるのですけど、それがずっど天井の周囲に書いてあります、天井自体は、角材を縦横に組んだ格天井の格間の内側に更に小型の格子を組入れてある小組格天井というもので、冨貴寺の天井と同じ造りです。仏像を安置する厨子も立派です、三棟の厨子がありますが皆立派です、そういうのでお堂の中は見応えがあります。もう少しくわしく説明しますと、

 ●愛染堂に上る上り口の階段をずっと上って行くんですけど、この横に願成院という真言宗のお寺さんがありますが、この石垣が三佐の石工さんが作った石垣だと言われています。これは、お寺さんの話です。どういう人かというのは私はまだ調査しておりません。ただ言い伝えで、これは三佐の大工さんが積み上げた石垣だということです。ここにお詣りする時この石垣は我々の祖先の作った物だと見ながら上って行ってほしいんです。

 ●十六羅漢が石垣の手前に並んでおりまして、ちょっとムードがありますけれども、目ざわりになるのは、NTTのマイクロウェーブの塔が赤と白で、これは景観にとってはマイナスです。

 ●愛染堂は今全体がトタン葺の上覆をかけていますので全体を録りにくい。正面に遍照殿と書いた額がかかっていますが、軒が二軒といって、二段になって屋根板を支え、下の地垂木と上の飛檐垂木と、垂木が二段になって、これが放射線状に開いて並べてあります。ちょうど扇を開いた様な感じで、禅宗建築の様式で、軒裏が賑やかです。

 ●建物四方の軒の隅の処の木の先瑞に人面といって、人の顔が彫ってあります。こういう細工をして、この上に天邪鬼がのっかかっているんです。天邪鬼は臼杵の三重の塔にもくっついていますが、ちょっとした処に大工さんが彫物の腕を見せているんです。ここで軒の垂木が放射線状に行っているのがよくわかると思います。内部に今お厨子とお大師様と見えますけれど、これが雨漏りで痛んでいますが、ここに愛染明王の光背がちょっと見えます。愛染堂のご本尊です。

 ●これをご覧になったらわかりますが、ここに天女の彩色の絵がございます、この仏様には色気があるといったら悪いですが、実に女性的な感じの仏様です。仏様というのはどちらかというと中性ですけど、江戸時代初期の仏様ですので、平安時代の仏様とちょっと感じが違います。こういう様な紋様がずっと入っておりまして、そして、こういう花鳥というか、花の絵があります。雨水で剥落しかけたところがございますが、これは復元したら素晴らしい、きらびやかなお堂になるわけです。

 ●もう少し近付いて見ると、ここに梵字が入っております。これは仏様を現しております。要するに、江戸時代には彫刻とか装飾に非常に力を注いだお堂が目につきます。白木で作ってあるお堂もあるけれども、彩色しているというか色をつけてあるお宮さんもある。日光東照宮と伊勢神宮が対照的に見られる様に全く白木の伝統的な建物と、思い切って色付けした建物と、二つ日本文化の中にあります。こっちの方は非常に賑やかに装飾をした建物です。

 ●お厨子が三つ並んでおりますが、その前にあるのが真言宗の護摩壇、脇に仏様が二つ並んでいる。こういうお厨子というのは建てた当時の様式を伝えておりますから、お厨子だけでも見応えがあり立派なお厨子を置いてあるのをご覧になって頂きたいとおもいます。部屋の隅の処も時間が作る色といいますか、雨水で打たれていますけど、何か渋い色を出しています。護摩を焚いていますから、ちょっとくすぷった処もあります。



銃眼のある西光寺と三佐大工


 ●竹田市役所の近くに浄土宗の西光寺というお寺さんがあります。銃眼といいますか、お城の塀や壁に設けられる鉄砲を放つための開口部である鉄砲狭間のあるお寺というので有名です。これは、中川公の菩提寺の一つで、いざ戦争が始まって、城方はお寺さんに逃げ込んで、最後の抵抗をするために作ったのかどうか、そういう鉄砲狭間があり、火燈風のアーチの窓がついております。屋根は当初本瓦葺といって丸瓦と平瓦を交互に葺いてある屋根だったんですけれど、それが痛んで銅板に葺き替え、現在はこういう感じになっています。昔の方が重い感じですが、屋根がちょっと軽い感じになっています。

 ●瓦葺の時の鬼瓦の遺品が本堂の左手にありますが、これは相当大きい鬼瓦で本堂の規模の大きさが分かります。

 ●本堂正面の階段部分に水引虹梁というか、階段上の向拝屋根の虹梁の上にこういう竜の彫り物があるんです。竜というのは、これは大工さんの腕の見せ所で、変な竜を彫ってあるのもありますし、本当に雲を呼ぷ様なすざましい竜を彫ってあるのもあります。

 ●だいたい時代が古い時には、虹梁の端の彫りものというのは、線が細くて丸い感じなんで、それが、江戸時代も終り頃になると彫りが深くなって、しかも、丸味が楕円形になってくる。若草のカーブに玉がついたり賑やかになってくる。簡素なのがどちらかというと古い方で、賑やかなのは、時代が下ったもの、彫り師は、棟梁が彫る場合と、彫り師が別にいて彫る場合とあるわけです。よくお祭りの時のダンジリに、彫刻を一杯しておるのも、船大工の中の彫りのうまい人が、腕の見
せ所で彫ったダンジリが瀬戸内海の沿岸の町ではよく使われております。

 ●階段上には海老虹梁がつなぎで、階段の処の柱と連絡しているんです、海老の胴のように曲がっているから、海老虹梁というんです。向拝屋根の垂木の下に、彫刻を一杯した手挟みという材がみられます。そういうような処の彫り方で時代もある程度わかるし、大工さんの仕事の具合もわかります。

 ●お寺さんの鐘楼の中で、下の台の方は袴腰という、こういうようなカーブを描いているんですけれど、女の人の額(ヒタイ)に似せて作ったといわれています、この袴腰の鐘楼で一番古いのが、大分県ではこの西光寺のもので、元禄時代のものです。

 ●高欄がついておりまして、軒も二軒になっております。和様の形式で軒裏が出来ています。和様というのは大工さんに言わせると、四天王寺流なんて言い方しますけど、奈良時代からの様式をうけついだ建て方です。

 ●山門も、大分県にある山門の中で最も質がいいといいます。こういうのは、おそらく三佐の大工さんが関係していると思うんです
が。

 ●門の軸吊りの扉を受けるためにとりつけた木のブロックの藁座というのが入っているんです。これは禅宗建築の様式で、普通は藁座という軸受けの部材がここで終わるわけなんですが、この門はそれがずっと伸びて向うの柱まで来ているんです。こういう藁座の付け方をしている手法というのは、あまりありません。ちょっと珍しいやり方です。普通は扉の上丈についているんです。そういう作り方をしている。



中尾八幡と三佐大工

 ●また、竹田の中尾八幡は、三佐の河井権左衛門直国の仕事です。お宮さんは、お寺と違って千木とか鰹木が棟の上についていて、これがお宮さんの棟の様式になるわけです。入母屋造りで、梁間から入る妻入り拝殿は、非常に凝っているんです。こんな拝殿はあまりなく、後ろのこういう処に鯱(しゃち)に似た魚を入れているんです。三佐の海の魚を見たから、こういうものを入れたのかなあと思うんです。あまり他所では見られません。

 ●内部も柱にまで、凝った彫り物が入れてあります。普通の拝殿にはこういう物は少ないですから。

 ●本殿の方は流れ造りです。日本全国のお宮も八割は流れ造りで出来ております。宇佐神宮のような八幡造りというのはあまりありません。妻側の梁が、壁の面より一手前に出ていますから、それだけ軒の出が深くなるわけです。

 ●彩色をして、彫り物もしっかり使ってあります、江戸時代の後期の賑やかさが出ています。

 ●この中尾八幡の仕事をされた棟梁が三佐大工の河井権左衛門直国とその子供さんですが、この棟梁のやった仕事だということで、ご紹介したわけです。要するに江戸時代の中期から後期にかけて、三佐の棟梁さん達が非常に岡藩の中のお宮さん、お寺さんの仕事をして来ている。そのやった仕事は、これは、大分県の文化財として誇るに足る様なユニークな仕事をしているということを皆さん方に知って頂きたいので、ご紹介したわけです。