大分市三佐地区の庚申塔 |
●前略、、、
●そこで資料を見て頂きますが、この三佐地区で庚申塔とはっきり分るものをプリントの一枚目に挙げておきました。
●一、黒石庚申塔(四基)としてありますが、あすこにはコンクリートで土台を固めて八本の石塔が立っております。その四本までははっきり庚申塔ということが判読できます。それ以外の四基のうち一基は梵字を彫ってあったと思われますが、その縁が残っているだけで、全体はもう摩耗しております。これも庚申塔だと思うんですがここでは除外してあります。それからあとの三本は現在は石だけなんですが、あるいは昔は庚申塔という文字が彫ってあったのかもしれません。しかし現状ではっきり確認出来るものは四本。その黒石庚申塔の@ABCが庚申塔です。@の下の図ではいろいろ書いてありますが、これは@のを拡大して文字を書き込んだもので、これについてはあとで申しあげましょう。
●二、はこの近くの尋声寺庚申塔です。お寺の山門を入って本堂の右の方に一基あります。
●三、は八坂の野坂神社に一基あります。以上はっきり庚申塔と判断出来るものが六基です。それから四、として太刀振神社荒神塔と書いてありますが、この塔は庚申塔ではなくて荒神塔、この話は後で時間があれぱしますが、いわゆる荒神様の碑です。
●次に二枚目のプリント資料に移りますが、これは大分市が出しました上中下三巻から成っている「大分市史」の中巻に「庚申信仰」についての記述があるのを転写したもので、これは大分市内の庚申信仰全般が書いてあるわけですが、そのなかに「昭和五十年ごろの調査では、鶴崎地域にはそうした庚申塔が十二基みつかっている。このうち年号のはっきりするもっとも古いものは貞享三年(1686)のものであるが、もう一基おそらく寛永十年(1633)造立に違いないと思われる塔もみつかっている(岡部富久市『鶴崎地方の庚申信仰について』)」という部分がありますが、この岡部富久市君は、かって鶴崎高校に勤務しておりました。現今は大分中央高校勤務と思いますが、その鶴崎高校に勤務しておるときに、この鶴崎から三佐、高田の方まで庚申塔の調査をしてその結果をまとめたものですが、この寛永十年という年次にはちょっと問題があると思っております。それから、この岡部君が調査したのは、庚申という文字が入った塔と青面金剛の刻像塔だけなんで、それ以外にいまご覧になったようなものも庚申塔に入るんだということをこれからお話申し上げます。庚申塔は全国いたるところにあるわけです。北は青森から九州まで各地に分布しておりまして、特に関東、東京なんか古い塔がずいぷんあります。要するに青森から九州まで全体にあるわけですが、この三佐の庚申塔は県内でもちょっと特色があるということを私は考えております。
●そもそも中国から道教が入ってきて、庚申の行事が行われはじめたのが平安時代の初期、お手元の資料に「守庚申」と書いてありますが、これはつまり「庚申待」。待ちというのは、待行事という一つの形があります。お日待、お日待というのはお日様が昇るのを皆が待って、お日様が昇ると皆で拝む。それから二十三夜待、二十二夜待、十三夜待というのがある。そういう待ち行事というのが一般民衆の中にあった。庚申待というのは、守庚申、すなわち庚申を守る。人が眠らないで、三尸の虫が体から出ていかないように眠らないでいて、そして不浄を忌む。夫婦の交りを不浄というのもちょっと厳しすぎると思いますけれども、要するにそれも不浄なんです。だから、不浄を忌む。それがかのえさるの晩の行事だというのが、平安時代に入ってきたわけです。
●そして庚申という文字が、日本の文献の中でもっとも早く見られるのは平安時代。
●承和五年(838)に僧圓仁という比叡山のお坊さんが、当時の遣唐使の随貫の一人として唐に派遣されたんです。この方が日本を出発して中国に渡る途中で、船が難破して、あちこちを苦労を重ねて、やっと山西省の五台山にたどりつき、そこで貴重な仏典を見せてもらって修行をして、それから長安に下りて来て日本に帰って来るまでの日記が「入唐求法巡礼行記」(にっとうぐほうじゅんれいこうき)。この中に始めて「庚申」という文字が出てくる。圓仁さんは遣唐使船が難破して揚子江から北の方に上陸して、道もない山野を行ったという記録があるんですが、その年の「十一月二十六日夜、人皆眠らず。本国の正月、庚申の夜と同じなり。」という日記の中に庚申という字が始めて出てくる。その圓仁さんが838年中国に渡った頃には、既に庚申という行事が、特に日本の宮廷の風習として行われていたことがわかるんです。
●それ以外に庚申待についての記録は西宮記、枕草子、栄華物語とかに見ることができます。要するに「かのえさる」の晩はお公家さんが宮中に集って、そこで天子から夜食にお粥が出され、囲碁、和歌そういうものを楽しみながら夜明しをしたという記録がいくらでもある。これは平安時代のことです。このころは宮廷の行事であって、一般の庶民は庚申の行事なんか知らなかった。それが急速に一般の庶民に広がったのは、江戸時代に入ってからのことで、庚申塔を立てるという造塔の動きが全国にずっと広がっていった。
●豊後の国あたりに庚申の信仰や庚申塔を立てるという造塔、それがいつごろ入ってきたものか、なんとかわからんものかと思って調べて見たが、なかなかはっきりした時期がつかめない。ただ宇佐神宮の古文書の中には庚申縁起がありますが、それはどうも大坂の四天王寺か奈良か、あちらの方の庚申縁起を写したものじゃないかな、という気がするんですけれども断言できませんが、そういう歴史があるわけです。
●さて本論に入りますが、海原地区の庚申塔はどういう特色があるかということです。私が昭和五十二年に日田で勤務になりましたが、日田の町はいたるところ庚申塔だらけ、もう行った先、行った先、道の分れ目、道端とか、お宮の境内など多いところでは一ケ所に五基も六基もある。こんなにあるなら全部調べようということで始めたのが、私が庚申塔調査をはじめたきっかけでした。その前竹田に四年おりましたが、竹田にも幾つか庚申塔があったのを見ておったんですが、本格的に始めたのは日田です。
●この台帳は、大分県の市町村別に記録を採ったものなんですけれども、これで今のところだいたい千五百本位、二万五千分の一の地図の上に所在地を赤で星を落して番号(台帳の番号と一致)を入れ、それぞれの塔について写真と塔面の記録を別冊にしてあります。
●しかし庚申塔は何基まで調べたら終りになるかということがわからんで、歩けるうちにできるだけ多くしらべて回りたいと思っていますが、先日大分合同新聞に宇目町に庚申塔が六百基あると出ていた。宇目は多いとは知っていたし、私の台帳にも五十基ばかり載っている。多いことは事実なんですが、六百とは驚きました。宇目町に転居してでも調べるかと思っているくらいです。
●三佐地区の庚申塔に話を戻しまして、黒石の庚申塔の@を見てください。一番上に梵字でア、これは大日如来、日天子の仏様を一字で現す「種子」という梵字です。それが彫ってあって、「奉待梵釈二天王」と彫ってあります。本当は屋根囲いをして風雨にうたれることを避けておったら、もっと下の方の文面がよくわかったんじゃないかと思うんですが、長い年月風雨にうたれてはっきりわかりません。その右に「寛永二十癸未年始」行を替えて「貞享三丙寅年」左側に「正月吉祥日」とあります。多分私の判断ですが、黒右地区で庚申待行事を始めたのは寛永二十年(1643)で、この年に庚申講がつくられ、そしてこの塔を立てたのは貞享三年(1683)の正月のある日だったということではなかろうか。多分そうだろうと推測しております。その下に蓮華の花びらがかすかにわかる。その下がじゅうぷん判読できない。むしろ皆さんにお間きしたいと思って来たんですけど、「元禄四辛未」その下がよくわかりません。「同七甲戌次十月廿六日」その横「同拾丁丑次十月」行替え、「同拾三庚辰次十月」「同拾六癸未」「宝永三丙戌次七月五日」「同六己丑六月廿一日」と年月日が彫ってあります。
●いちぱんはじめの「元禄四辛未」の行の右に何かあるような気がするんですけれども、よくわかりません。それからそのいちぱん終りに彫られていることが私にはわかりません。これは何か、三佐の地方史を研究されている人も多数いらっしゃるんでご存じの方もおられるかと思います。江戸時代に彫った文字では原稿を書く人が書き違ったのか、同じ読みで字が全く違うのがある。同音異字の塔がよくあるんです。どうもサンズイにオオガイという字であるのか、サンズイが髭三つの間違いで「須江」さんという姓が現在あるか、または昔あったか、文献に出ているかどうか、四人の名前は一族の関係と思うんですが、この字がどうも解読できない。おわかりの方があればお教え下さい。
●元禄四年は一六九一年、元禄七年は一六九四年、元禄十年は一六九七年、宝永六年は一七○九年、この数字は全部三年ごとで、三年ごとに年号を彫ってあるというのはどういうことか、これも疑問なんです。
●もし貞享ご一年にあの塔を立てたものならば、そのあとで彫りたしていったのか、三年ごとに待行事のような、なにか特別の行事をしたのかどうか、さらに発想をまったく変えて、この塔を立てたのは宝永六年であったのか、そこの判定は私にはまだつきません。たぶん貞享三年に立てたもので、その後彫りたしていったということかも知れません。いちど立てたものの塔面にあとになって彫りたすということもあるんで、それはそうかもわからないが、何とも断定できません。黒石の石塔の中ではこれがいちぱん立派ながっちりした塔です。その外にAの塔は上に梵字(丸に種とある)「文政九丙戌天」(一八二六)「庚申塔」Bの塔では「梵釈二天王」年号はわかりませんが、墓右の様な形C「梵釈二天王」だけの自然石。全部で八基あるうち四基は以上のように判読されます。
●尋聲寺の庚申塔は高さ一b三一a、図のように上から約五分の一くらい表面が削れていますが、字は読めます。「梵釈二天王」「干時延宝八庚申年正月二十九日」「施主」。
●野坂神社の庚申塔は高さ一b材三○a、「奉請帝釈尊天宮」で帝釈天が主尊です。「貞享三丙寅」「十一月十日」願主七人の名が下部に彫ってあります。先の岡部富久市君の調査では、これらは入っていませんが、これは明らかに庚申塔である。それは、黒石の@の庚申塔を見て頂くとわかるように三猿、二鷄がちゃんと彫ってある。ということは、庚申の信仰のために立てた塔である。そしてそれは、梵釈二天王を主専としているのです。
●それでは「梵釈二天王」とはどういうことか。これは「梵天」と「帝釈天」を合せて「二天王」と奉っているわけです。三枚目のプリントをご覧下さい。そこに「日本石仏事典」から、「梵天」と「帝釈天」の解説を抜き出しました。梵天というのは一般的には梵
天様と言っておりますが、我々にはあまりなじみがない。ところが帝釈天というのは、寅さん映画で日本国民が皆知っています。せりふで葛飾柴又の帝釈天の水で産湯を使いというように、葛飾の柴又に願経寺という帝釈天を祀った大きなお寺があります。あすこが帝釈天の日本の本家だと言ってよいと思うんですけど、帝釈天というのは私どもに親しみがある。
●資料の帝釈天の項の三番目の段落のところを見て下さい。「帝釈天の石仏造立の目的は、多くは庚申信仰の主尊としてである」とあります。つまり帝釈天の塔を立てるのは庚申信仰のために立てたという歴史がある。ということは昔からこの三佐地区の庚申信仰の中に、帝釈天信仰がまじり合って存在していたということがわかるわけです。
●しかしながら大分県の中で帝釈天を主尊とした庚申塔の分布はきわめて少ない。大分県内の庚申塔もずいぶん調べましたが、おおまかな地域的傾向を申しますと、日田の方の庚申塔というのは、猿田彦太神、一基の例外を除いてすべてこの系統ばかりです。水分峠から日田、玖珠、筑後川流域、甘木の方まで全部猿田彦の系統です。それから国東半島に行くとほとんどが青面金剛の刻像塔、国東半島に行くと九十%が青面金剛の刻像塔。それ以外に文字塔もいくらかあります。特に国見町の櫛来川、岐部用の流域には庚申塔が多いんですが、青面金剛像を彫り込んだ立派な塔がたくさんあります。また、宇佐地方を中心に猿田彦の刻像塔も散見できます。つぎに帝釈天が塔面に出てくる庚申塔は三佐地区にいま見たような六基の塔があります。三佐地区以外では帝釈天、梵天を含めて、どのくらい庚申塔の中に出てくるかというと、私の調査した範囲内で、一つは大分市上田尻の道端に庚申塔群がある。その中に「帝釈天庚申」宝永四年(一七○七)、それから大分市下宗方の歳神社の境内の数基の中の「帝釈天子」と彫り込んだ塔、明和七年(一七七○)があります。このことから田尻、宗方あの辺は帝釈天信仰が庚申信仰の中にあったと考えられる。もう一つ大分市横尾に中野公民館というのがありますが、その前に「梵釈二天王」、それから竹田の町から久住の方に上って行く途中の上鹿口に「大帝釈使青面金剛尊」、これは年号がわかりませんが、ちょっと時代が下るものだと見ております。というのは、青面金剛という文字が出て来るということは、帝釈天を主尊とする信仰よりもかなり時代が下っているわけです。
●私の調べた範囲ではこの三佐の梵釈二天王と帝釈天、上田尻、下宗方、横尾、竹田の久住に上って行く途中の上鹿口以外、帝釈天が庚申塔面に出てくる塔は、まだ見当たっておりません。もし皆さんで、こういうのがあるぞどいう、おわかりのものがあれぱ教えて頂きたい。私のつたない研究を進めるために使わせて頂けれぱと思います。
●お配りしたプリントの最後のものは庚申塔の像容、写真からのコピーで不鮮明で申し訳ありませんが、はじめのは青面金剛の刻像塔、国東町上成仏の吉本さんの家の庚申堂の中に安置してあります。延宝八年(1680)の造立です。その下のは「青面金剛」の文字塔、元禄十五年に立てたもので、国東町興導寺地主神社。その左は文字塔で「猿田彦太神」文政九年(1826)造立で日田市中本町。左の上は猿田彦の刻像塔、安永三年(1721)造立で国見町伊美の牛頭社に立てられています。それから庚申文字塔、文政五年(一八二二)野津町垣河内の例です。
●この像容、塔に彫ってある文字とか像の歴史的なものとか、詳しいことも申し上げたいのですが、時間がないので省略しますが、要するに三佐地区では梵釈二天王、帝釈天信仰が庚申信仰と習合しておる非常に古い形のものであること、何か三佐地区にそういう特殊な条件が延宝、天和、貞享、元禄の時代にあったかどうか、その点を皆さんの地方史を研究なさる材料として検討して頂けれぱありがたいと思います。
●後略、、、