三佐の神社仏閣 |
一、神社
名 称 | 住 所 | 由 来 | 考 察 |
野坂神社 | 大字三佐八坂村 | 本社祭神は「速玉男尊、いざなみ尊、事解男尊の三柱」、創建年月不祥、口碑によれば後柏原天皇の永正(1504〜1520)年間、漁翁弥藤次という人が、当三佐の海中から光さんぜんと輝く霊石を奉守、上熊野大権現と御崇め、字野坂(やさか)に奉祀したといい、或はむかし紀州熊野大権現の御分霊を御勧請し、八坂山大権現と斎き奉ったという。その後貞享元年岡城主中川佐渡守源久恒公が江戸から下向の際、伊予於津和浦で難風に逢い、熊野大権現に祈願した処、忽ち御加護があり、つつがなく入国できたので、翌年神殿、神楽殿その他諸建物の御改造、中川家累代武運長久祈願所として神領若干を寄付、享和2年(1802)、神殿諸殿頽負のため領主中川久貴公が再営、絵馬殿に奉掲してある絵馬は久貴公の奉納されたもの。境内の蘇鉄は樹齢不祥であるが、数百年前のものと充分想像できる。明治維新で郷社に列せらる。 | 小学生の頃、ここは絶好の遊び場所で、この蘇鉄の葉で手裏剣を作って遊びました。 |
天満社(海原) | 大字海原 | 菅原道真を祀り、創立年月不祥、旧藩主より組鎮守として崇敬し、明治4年村社に列せられる、祭典は山車を出して供奉し還御後境内で角力を催すのが例となっていた。 | 最近は相撲がないです |
天満社(家島) | 大字家島字下村 | 菅原道真を祀り、創建年月不祥、家島全村の氏神として尊敬し、明治10年5月全村の大火(103戸焼失)に逢い、社殿悉く類焼、明治12年造営した。 | 三佐の歴史年表で見る限りはこの社が一番古いみたいなんですが、、 |
太刀振神社 | 大字三佐字堀川 | 明治年間、直入郡竹田町中川神社の御分霊を勧請し、板屋町に祀ってあった八坂神社を合祀し、社号を改めた。 | まだ竹田町ですよ!所在地は拝田原 |
愛宕社 | 大字三佐仲町 | 由緒不祥 | 残念ながら文献なしです |
竜神社 | 大字海原新町 | 由緒不祥 | 同上 |
金刀比羅社 | 大字三佐遠見下 | 由緒不祥 | 同上 |
二、仏閣
名 称 | 住 所 | 由 来 | 考 察 |
海潮寺(臨済宗妙心寺派) | 大字三佐堀川 | 慶長3年以前月浦得和尚の創建、鎌倉壽福2世蔵叟大禅師を請して開山と為す。当時大友の家臣野上伯耆、御手洗佐渡の両人一宇を建立し、本尊に薬師如来を奉安、数代の後14代徳嶺和尚に至り寛永14年3月中川久盛公御著船の地となりてより寺内狭く、諸人参詣差支あるにより承応年碧雲 寺6世乾門大和尚の思召を以って現在の地を拝領、堂宇再建本尊を改めて千手観音を安置。尚、旧跡猶薬師堂村の字名あり。蓋し其迄の鎌倉建長寺末の処、寛永年中済宗和尚多福寺3世賢厳大和尚の嗣法にして妙心寺に転位するといわれている。旧記にこの様にある。 昭和62年5月3日、本堂改築落成。 |
この境内の中に子どもの頃よく遊んだ心洗保育園が現在もあります |
尋聲寺(浄土宗光明寺派) | 大字三佐浦町 | 本尊阿弥陀如来、開祖僧顕空は大分郡大分町(現大分市)来迎寺住職、隠居の後、元和年中、当寺を造営し来迎寺末となるが、貞亨年間僧月堂来 迎寺を離末し、当両本山直末となる。 |
この寺に中川港御座船の舳先にあった家紋板があるといわれてます |
圓光寺(真宗本願寺派) | 大字三佐浦町 | 開基は僧了照で元大分郡津留村(現大分市津留)の庵室に住居していたが、元和年中三佐村に移転、一宇を建立し直入郡竹田町光西寺末となり円 竜寺となり円竜寺と称す。後寛文年間3代僧霊閑更に圓光寺と改め中興すという。天明7未年正月大火の類焼に逢い全部焼失、再び建立する。本尊 阿弥陀如来。昭和51年3月31日本堂を改築落成。 |
わたしの家のお寺でございます。 |
安養寺(臨済宗妙心寺派) | 大字海原 | 本尊阿弥陀如来、当寺は大字海原に在り。開基年月不祥、僧梅浦の創建という。その後衰微したのを慶長14年酉年僧春花中興、明治廿年回禄の禍に逢い本堂焼失、更に再び建立したという。 昭和48年11月13日、本堂を改築。区画整理事業により、墓地を現在地に移転する。 |
この辺り開けましたよねー。昔よくこの辺りで遊んでました。 |