江戸時代初期の三佐 |
●前略、、、
●この三佐がどうして岡藩の領地になったのかということ、これを今日は最初にお話し申し上げてみたいと思います。皆さん方の資料の三枚目をご覧下さい。墨書きのものがあります。「一、今市御茶屋」この一連の資料ですけど、何で今市が三佐に関係あるのかと思うかもしれませんが、実は中川氏が豊後岡藩に入ったことからお話しましょう。
●中川氏系図があります。これを一寸ご覧下さい。これを書き込んで頂きながら、この三佐が岡藩の領地になったその経緯まで、今日はお話したいと思います。中川氏略系図の一番上が清秀です。中川清秀は皆さんご存じの方も多いと思います。賎ケ嶽の七本槍で有名な、豊臣秀吉と柴田勝家が天下を争った戦で、その時、秀吉方について賎ケ嶽を守って戦死するわけですが、中川清秀、この人を中川氏は近世の初代というふうにしております。この清秀の前はあるわけですけれども、中川氏はこの清秀を始祖と呼んでいます。そして、天正十一年四月二十日死とありますのは、賎ケ嶽で戦死した日なのです。そして、その子供に秀政、秀成とあります。この秀政が、瀬兵衛清秀の後を継ぎまして、茨木十二万石(摂津の国)を領しました。ところが、文禄元年から始まりました朝鮮出兵でこの秀政が戦死するわけです。それも朝鮮軍や、これを援けた明軍(中国)と戦争の途中で戦死したのなら、これは名誉の戦死ということになって、恩賞を貰い中川氏も大きな領地を貰えるようになったんだろうと思うんですが、そうじゃなくて秀政が陣地の見廻りをしていた時、ゲリラからそ撃されたわけです。それで秀吉がかんかんに怒って、大将たる者が先払いとか、供も連れず(まあ、若干は居たんでしょうけれども)敵からそ撃されるような所をうろつくというのはけしからん、本来なら中川氏茨木十二万石は没収するところだけれど、「瀬兵衛清秀が俺に協力してくれた、その父親の功績に免じて中川氏は存続させよう」ということで、その弟秀成に中川氏を継がせるわけです。「しかし、茨木十二万石は与えられない、豊後に移れ」ということで岡藩七万石(最初は六万四千石ですけれども)、文禄三年この豊後の国岡城にやってくるわけです。その時の中川六万四千石という領地は大野郡犬飼町、三重町の西半分、そしてあと残りの清川村、緒方町、朝地町それから宇目町、今日は南海部郡になっていますが、江戸時代宇目町は大野郡でした。それから、竹田市、直入郡の荻町、久住町、直入町こういう処が六万四千石の母体となっております。
●そして、この豊後に中川氏が入って来たのですけれども、江戸時代のような参勤交代という制度は出来ていない。しかし、大坂に出仕しなければならない。その時、船をいちいち雇ったりするのは大変だから港を与えようということで、この秀成の時に大分川の下流、今津留が与えられました。ところが、この今津留が慶長元年の地震で半分ほど、いや三分の二くらいでしょうか、沈んでしまいました。そして、船着場としては条件が悪くなりました。そこに、もう一つ難問が起こってきました。それは何かといいますと、徳川一伯、すなわち徳川忠直です。この忠直が萩原に流罪になってやって来ました。
●中川氏が持っていた今津留には、萩原がついていたのですけど、その萩原の地を徳川幕府に返さなければならなくなったのです。徳川幕府に返すについては、船着場を中川氏に与えるが、乙津ではどうかという提案がありました。ところがその乙津を中川氏から取られたら困りますと、今度は府内藩が幕府に文句、わかりやすくいううと文句を言いました。それなら、そのかわりに乙津の下流の三佐を、ということになってこの三佐が中川領ということになったわけです。中川領になる経緯は以上のようなしだいです。
●そこで、先程の文書です。「今市御茶屋」という、この資料を見ながら、この三佐が中川領に成立していくその様子をお話してみたいと思います。
●先ず、中川氏が今津留を預った時に、竹田と今津留を結ぶ道筋を作らなければならぬということで、今の大分郡野津原町を通りまして、野津原町の西の方の今市(いま野津原町ですが)、今市がちょうど今津留と岡城のほぼ中間になるわけです。此処を宿泊所にしようということで今市御茶屋が出来たわけです。
●「今市御茶屋」の資料を見ましょう。「一、御茶屋は文禄三年当分の城山に諸々建てる」とあります。今市の町筋を見ますと、丁度カギの手に真ん中を折って、クランク状に曲がっています。宿場町というのは、先ず殿様が宿泊します。文禄三年頃といいますと、戦国時代の延長ですから、戦国の気風がありますし、ひょとして、襲撃されたら困るということで、町筋を一回折り曲げているわけです。これは城下町を作る場合の道筋を変えるのと同じです。その典型的なのは、熊本だと思います。熊本城が正面にあると思って車で行っていると、何時の間にかその道が真っ直ぐ熊本城に向っていた筈なのに、城は右の方に移ったり、左の方に移ったりしている。道は知らない間にそれているのです。あれは、城を直接攻められた時に、敵の兵が真っ直ぐ来れないようにそらすために作ってあるわけです。そういう町作りをするのですけど、宿場もやはりそういう形で防衛ということを考えています。このような発想のもとに、今市の町並が作られたわけです。
●ところが、先程申しました様に、萩原の地を幕府に返上することになりました。そして、松平一伯が萩原、下郡五千石を領することになって、そのかわりに中川氏が三佐に移ると、今市も通るのですが、今市を通るよりも、三佐の前の川をさかのぼって犬飼まで上って行くと、竹田にずいぶん近くなるし、それから、物資も川舟で途中まで運ばれるじゃないか、という、そういうことになったのだと思います。それで宿泊場所として犬飼の地が考えられるようになりました。
●そこで「犬飼町出来並びに御舟着のこと」を見てみましょう。「一、ご入国の節より、(このご入国というのは、元禄三年に岡藩に入国した時のことではなく、萩原、今津留から此処(三佐)に移った時と考えてよいと思います)ご入国の節より明暦の頃迄は田原村の内、鶴ケ瀬(これは犬飼の上流に鶴ケ瀬と今も)と申す処に御舟着これあり、大庄屋宅へ御入り也、明暦二年より犬飼町出来、御舟着替る、(即ち今迄今津留にあったのが明暦二年から此処にかわるという意味です)一、寛文二年犬飼御屋敷、地形ならし御茶屋御普請あり御蔵出来る、人夫二万九千八百七十四人。一、正徳元年御蔵屋根瓦に成る。自身(担当)阿坂直兵衛也」これは三佐を中川氏が領したそのことに伴って犬飼町と犬飼の舟着場が出来たときの様子です。
●次に「三佐御替地の事」について話を進めてみましょう。これが実は今日の本番です。「一、文禄三年御入国の節は御舟着沖之濱也、同五年大地震にて崩るるにつき、御舟着今鶴に替る。御領地は萩原、今津留、花津留也。元和三年今津留洪水にて相崩れ、御蔵所ばかり、萩原にかわる。(これは年貢米とか、その他大坂の御蔵に送る物資を収める浜蔵があったのです。それが萩原にかわったわけです。元和九亥年八月一日一伯様萩原に御下りまかりなり候につき、替地三佐にて御船着渡しに萩原に御領地残り有り、寛永四年一伯様津守え御移り萩原と仲村替地差引高不足分葛木、秋岡に相渡る。(領地を替えると石高に相違があるので、それを葛木、秋岡でまかなったということです。ちょっと脱線しますが、葛木は、小さな葛木村という村ですが府内藩領があり、岡藩領があり、臼杵藩領がある。一つの村がこういう形で幾つにも分けられた大変珍しい村です)
●一、久世ケ瀬石垣普請御領分一統より(岡藩全体からという意味)人夫まかりこし相つとめ候よし、諸運上一統ご免に相成り候節より、久世ケ瀬人夫御免にて御普請場になる。
●この絵図でいいますと、この町並の上の方です。乙津川が久ケ瀬で二つにわかれ、船着場は三佐の町並みの方にあります。そうすると、水が向うに流れると困るので、水をこっちに流すために、川を入り渡りが出来るような石積みを作って、洪水などの時は、その石積みを越えて向うがわにも流れるという調整をしたわけです。その場所は三佐の人達だけでは大変な難工事であるし、一度作っても洪水があれば流れてしまいますので、岡藩あっちこっちから人夫を徴発して工事をする。そういう御普請場にしたというわけです。これで久世ケ瀬は三佐の人だけではなく、岡藩としての御普請場という格上げになったということがわかります。
●中略、、、
●そこで、皆さん方のお手紙の絵地図の丸い絵図、これは、今、会場の真中に広げてありますこれと同じものです。ただ、絵図で、海岸の地形は、しょっちゅう変るわけです。これを書いたのが寛政年間というふうにあります。その前にありますのが、享和3年ですから、江戸時代を前期、中期、後期と大きく3つに分けると、中期の一番最後の頃になります。寛政は直前の年号です。地図をかくのは測量して書いたわけではないので、丸くなったり、細長いものになったりということになるんだろうと思います。ペン書きの絵図面は「竹田市の郷土史家阿部隆好氏の御厚意で写した」とあります。これと前に広げてあるものと、同じものとお考えの頂いていいと思います。
●その次の第7図、これも「寛政10年から6年間に亘り完成」した絵図とありまうsが、これは、ちょっと見にくいですが、原図は川の色を水色で書いたり、道を茶色で塗ったりしてあったんだろうと思います。ちょうど前に拡げてある地図が道を土色に塗ってある、そういうふうなものだったと思います。絵図は、色鉛筆ででも道と川を塗り分けて頂くと見易くなるだろうと思います。
●そして、前回の1月に私がお話し申し上げた時、中川氏の三佐と犬飼を結ぶ川舟は何処を通っていたのだろうか、ということで、私は鶴崎のあの大野川をずっと下って、そしてこちらに来ていたのだろうというふうに申し上げましたが、この絵図を見ますと、そうじゃなかったことがわかります。
●いま乙津川は、大野川から大量に水が流れないようせき止めてありますが、昔はそうじゃなくて、両方に水が流れていたようです。ですから、中川氏は、この大野川との境から、乙津川に舟を通していたことがわかります。大野川を下っていまの鶴崎の大野川大橋辺りから入りますと、熊本藩の船着場がある。他国の領地の中を通るのは、いろんな面で都合が悪かったと思います。それで、この乙津川を上から下って来た、そう考えるのが一番自然だろうと思います。
●この絵地図によりますと、大野川と乙津川の分れた処をきれいに水が流れるように書いてあります。左上のちょうど真中位でしょうか。
●三佐の船着場を見ましょう。皆さん方の青写真の絵図をご覧下さい。これは、安政年間の絵図と右上の方に書いてあります。これも三浦良一さんの、たしかお父さんとお聞きしたようですが、大正十五年に古い絵図があったのをお写しになったということです。安政年間といいますから、江戸時代後期です。その頃の三佐の町並がわかります。そして、左側の上の方に船入場、いわゆる丸川というのでしょうか船着場があります。
●それから、館長さんが青写真に焼いて前に貼って下さっています。これは、宝永二年です。元禄、宝永となりますので、赤穂浪士の討ち入りが元禄十四年ですのでその四、五年後と考えていいと思います。その頃三佐の町並が書かれています。これも大変貴重な資料です。そして、これも先程の久世ケ瀬の石垣等もきれいに書いてあります。
●この三佐に関する貴重な資料絵図がたくさんそろってきましたので、これから、皆さん方と一緒にこういう絵図を見ながら三佐をいろいろと考えてみましょう。町並がそっくり残っている処というのは、大分県内でここだけしかないんじゃないでしょうか。竹田にせよ、臼杵にせよ、町並保存ということで取り組んでますが、これは町の極く一部分しか残っていません。そういうふうに見ますと、町並が綺麗に残っているのは、全国的に珍しいということになりはしかいかと思います。船着場の丸川が現在はなくなっているのが惜しまれますけれども、三佐という場所を皆で考えていく基点に町並がすえられると思います。竹田に行ってもこんな地図を見ることが出来ようし、それから、あっち、こっちの旧家から、うちにもあったということで資料が出て来ると思いますんで、これからそれらを期待しながら一緒に勉強して参りたいと思います。
●お手許の資料、もう少し説明を加えておきたいと思います。いま絵図二枚のご説明をしましたが、その資料に安政年間の地図云々とありますが、これが青写真の大きい絵図の右上の部分です。資料としていつでも持っていて頂ければと思って、コピーしました。この時代には三佐町乙名(おとな)(これは全国的に共通しているのですが、町場の役人のことは庄屋と呼ばないで、乙名と呼びました)三佐町の乙名後藤周吉、それから、三佐村、同じ三佐、三佐といいますが、この町並のある部分が町であって、周辺に農家があるわけです。それは、三佐村という形で呼び分けをしておりました。それで三佐村の庄屋が加藤弥一郎、それから、海原村の庄屋が河村沖平、こういうふうに、この三佐地区は、三人のいわゆる町、村役人がいて支配をしていたことがわかる資料です。
●その次の同じくコピーですが、これは青写真の左下の方にごちゃごちゃ書いてありますが、その部分をコピーしたもので、旧藩中川氏三佐奉行です。中川氏は三佐奉行を置いて、その下に乙名1人、庄屋2人を置いて支配していたということになります。そして中川氏三佐奉行支配下御家人です。御家人というのは武士のことです。御家人名簿をみますと百二十五人いたことがわかります。武士といいますと、ちょんまげをして刀大小さして、というふうに連想されますけれども、必ずしも、そうじゃないんです。中川氏の関係の船を漕ぐ船頭さんも武士扱いです。だから、御家人と呼んでおります。そういう人を含めて、完全というとおかしいんですが、テレビに出て来るようなさむらい姿の武士もおりますし、それから船頭さんもいた。合わせて百二十五人だったということです。
●それから、「三佐年表抄記」があります。鶴崎にも安部光五郎先生という方がいらっしゃいますが、原本はこの先生から戴いたもので、安部先生がお作りになった年表だと思います。これを見ますと、「元和九年八月今津留、萩原より移る、町割奉行家老中川式部、中川玄番九月より町割」というように書いてありますが、その町割が今日残っている三佐の町並の大本、その通りかどうかわかりませんけれども、大本が出来た、そういうふうに考えてよいと思います。
●それから、その次に館長さんが歴史の教科書の年表の部分、この江戸時代に関係する部分の年表を作って下さっていますが、これに安土桃山時代という時代があります。そこに文禄、慶長とあります。中川氏が岡藩に入って来たのが文禄三年ですので、その文禄のところに印をつけておいた下さい。1594年になります。それから、元和九年三佐に移る。元和九年八月二十三みから三佐が中川領になったわけです。
後略、、、