三 佐 大 工 <棟梁、幸政治郎を中心にして> |
大工、幸政治郎傳 |
三佐大工の伝統は人形山車に生きる |
●私がこれからお話しする幸政治郎さんの個人の人生、或はその生き方、そういうお話というのは、それを通して三佐の大工さんの伝統というものを皆さん方に知って頂きたいと願ってのことです。その伝統が今どの程度受け継がれているか、その伝統が三佐の人形山車を見せて頂き、山車に三佐の大工の伝統が受け継がれているのだなあという感じがしました。最近は非常に大工さんに成り手が少ない状況がございます。収入がもっと多くなり、手作りの大工の職業がうらやましくなるようになれぱ、若い人も大工になる人がだんだん多くなると思います。大工さんという職業が、人間的な職業で、もの造りの中ではこのくらい伝統的な技術を発揮する職業はない、そういうふうに私は思っております。幸政治郎さんのお話を通して、男のお子さんだけでなくて、女のお子さんでも大工さんになっていい時代が来るんではないかと思います。江戸時代に京都の御所の中で奥の局というのがございます。男子禁制の場所なんです。江戸城の大奥でもそうですが男の人は勝手に入れない。そういう処で仕事をする時には、女性の大工さんがおりまして、これは井原西鶴の「諸国ぱなし」という本の中にも、京都の女の大工さんのことが出ております。
●そういう点で、私は大工さんというのは男子だけがやる職業ではなくて、女性だってそういう天性を持った方は、どんどん男性の職場であっても進出してほしい。男子の成り手が少ないから女性をというのではなくて、女性にとっても魅力のある職業の一つではないか、そう私は思っております。そういうことも含めまして、二十一世紀に向けて、ご子弟が大工さんというのはいい仕事だなあということを、政治郎さんの話をする中で、そういうお気持ちになって頂けれぱと思います。大体建築士を育てる仕事をしておりますと、皆さん方にそういうお気持ちになっていただけれぱ有り難いと思います。
幸政治郎と福沢諭吉 |
●お手元に、幸政治郎さんの碑文がございます。私も余り漢文に強くないんで、読み間違いがあるかも知れませんけれども、皆さんご一緒に勉強して行きたいと思います。幸政治郎さんが生まれてから亡くなるまでの一生を、野坂神社の宮司さんであった八坂黙丸さんが碑文に書かれております。このプリントを順を追ってお話をして参りたいと思います。
●幸政治郎はいみなを森房といい、幸弥三郎さんの長男で、母は田仲氏の出です。天保五年七月十日生、この天保五年という年は、これは非常に意味がある年と思うんです。実は一万円札の福沢諭吉先生がこの年に生まれています。天保五年十二月十二日生まれで、そして幸政治郎さんは七月十日生まれですから、ちょうど半年程早く生まれています。
●福沢先生も明治の日本の近代化の中で、非常に貢献された方ですけれども、福沢先生と幸政治郎さんを比べてみると、或る意味で非常によく似ております。同じ年に生まれて、亡くなったのが幸政治郎さんは明治三十三年旧の九月九日です。福沢諭吉先生はそれより半年後の明治三十四年二月三日に亡くなられた。だから幸さんが半年先に生まれたから半年先に亡くなったということです。ということは、幸さんの歩んで来た時代は、福沢先生と同じ時代です。福沢諭吉先生は慶応義塾を開きました。この人は政治家になれと相当すすめられたけれど、いや、私は日本の近代化の遅れを取り戻す為に、人作りのため、子弟を教育するということで政治家になりませんでした。教育家として一本筋を通したんです。
●しかし日本の文明開化について、このくらい思想的に影響を与えた人はいないし、福沢先生が育てた教え子達は経済界で非常に活躍をしました。幸政治郎さんは、工匠として、三佐大工の棟梁として、やはり八十人近くの優秀な大工さんを育てました。ある意味では、この人も教育者ではないか。そういう点でまあ同じ年に生まれてそして半年後に福沢先生が亡くなっています。なにかそういう関連で皆さんに幸政治郎さんの一生を見て頂きたいと思います。
修業時代の幸政治郎 |
●幼にして顕悟と書いてあります。これは緻密な頭をもっている頭脳明晰、そういう点では小さい時からなかなか優秀でした。弘化二年(1845年)十二才の時、吉岡市左衛門について工匠の道に進みました。吉岡市左衛門という方は先生です。建築の技術の先生です。 弘化二年という年は、臼杵藩が二十五万両の借財を背負ってこのままだったら、今でいったら藩が倒産する。それで勤倹節約に努めて二十五万両の借財を、村瀬という家老が政策を立てて払っていった訳です。その村瀬庄兵衛が引退をした年です。そしてその年に政治郎さんは大工さんになりました。
●嘉永六年、吉岡長蔵に従って岡藩の城下町竹田に参りました。この嘉永六年という年は、ぺリーが浦賀にやって来た年です。日本の国内が騒然として、外国のいろいろな軍艦がやってきて、尊皇攘夷というのを考えなきゃならんような時ですね。大分県でも中津藩とか宇佐の方の佐田という安心院町になっていますが、この佐田当たりで大砲を鋳造しておりました。この頃竹田に先生の吉岡長蔵さんについて行きました。
●万延元年、万延というのは一年しかないんですけど、井伊大老の話が頭に浮かんできます。ちょうど福沢諭吉先生がこの年に、一八六○年ですけど、江戸の鉄砲洲で蘭学塾を開きました。これは慶応義塾の前身なんですけど、同じ時期に幸政治郎さんは岡藩に仕えて、そして下の方からだんだん昇進していきます。中位、上位と進み、岡藩の大坂屋敷の御用普請、そして、小庄屋格になりました。今度は江戸普請をつとめます。
武士扱いの幸政治郎 |
●大坂で或程度勉強し、更に江戸に出ましたが、江戸というのは徳川幕府のある処ですから、そこには優秀な棟梁さんがおります。要するに中央の空気を政治郎さんは吸って、勉強をしまして、そしてその二年の終りに大庄屋格に昇りました。
●小脇差並びに苗字帯刀を許され、、本当に武士扱いです。そういう扱いをさせてもらい、そうして、その後に岡藩七万石の総棟梁となるというんですから、もう岡藩では、はっきり言って技術者では最も責任ある立場に立ち、二人扶持を賜りました。だから、一介の大工さんとして、この二人扶持というのは一体いくらぐらいか、扶持というのは武士はサラリーマンですから、給料のことです。この二人扶持というのは大体お米でいうと三石六斗五升、そのくらいです。これは米一升がその頃三十二文ですから、今の金に換算しますと、大体六百四十円くらい、私が言ってるのは三年位前の価格と思います。まあ、大ざっぱに言いますと二十三万四千円位です。そのくらいの扶持を貰っていた。当時の大工の賃金がどの位かと言いますと一日が四匁二分ですか、そのくらいですね。大体こまかく換算しますと大工さんの賃金が一日五千円くらいです。最近NHKの劇で平賀源内の出てくるのがありますが、平賀源内は高松藩の足軽なんです。大体安月給で、この人が日本で最初の博覧会を企画したんです。今博覧会ぱやりですけど、全国の物産を集めてそれを展示する。その人の給料が、銀十匁四人扶持というんです。
●源内という人はなかなか多彩な人ですから、高松藩に縛られておったんでは、これは幾ら頑張っても先が見えている。福沢諭吉もそうなんです。福沢諭吉のお父さんの百助さんというのも足軽なんです。中津藩では何時まで経っても身分が変りません。この人物凄い勉強家です。千五百冊以上の本を持っていたというんですから。封建制の中では足軽の子はなんぼ努力しても足軽、家老の子はどんな馬鹿でもやっぱり世襲でそういう職につける。そういう点では江戸時代というのは階級制度の物凄くはっきりした時代ですから、もう、足軽に生れたら、うだつが上らんというのは、そういう状況だったんです。だから、平賀源内がこういう扶持を貫っておって、自由になりたいというんで、藩から出て江戸に出たんですけど、この幸政治郎さんも二人扶持でたいしたことはないといっても、当時それだけのものをお手当として毎年貰うのは、大工さんにとっては大変名誉なことだと言えるのではないかと思います。
海運業と幸政治郎 |
●そういう江戸時代が過ぎまして、そして明治三年、幸政治郎さんが三十六才の時、その時に明治維新、変遷を経て、世の中が大きく変ったものですから、商売変えをしようということで、海運業を始めました。
●勿論、三佐の港で育っておりますから、船を見ています。それで幸正丸という六百石積みの船を浮かべて航海に出ました。長洲萩、出雲大浦及び兵庫とか大阪の方へ鉄道の用材を運搬しておりました。
●明治九年四十二才の厄年の時、石見の浜田沖合いで、台風みたいなのが来たのでしょう、船体が破壊しまして、やっと命びろいをしました。その時に家産が傾き、船乗りをやっておっても仕様がないということでやめます。
●そこで又、古巣に戻って再び工匠となり、鋭意専心、頑張った訳です。
●幸政治郎さんも下手に建築業以外に手を出して、家産が傾いた為に、海運業を廃業して建築業に専念しました。
再び棟梁として立つ |
●最初にやったのは熊本県で肥南郡高森の豊後屋、というのは宿屋か何か知りませんがこれも一度高森に行って聞いてみようと思います、そういう建物が今残っているかどうか。次に明治十年直入郡菅生村(荻町)荻神社を造営、神社の建設碑に脇棟梁は河村佐喜太さんという方が出ております。下棟梁は長野徳之助、花田幾太郎、寺田祐治郎のご一人です。この花田さんのことは、このあいだちょっと私お話したかもしれませんが、幸政治郎さんの弟です。大野郡朝地町に大音寺というお寺があるんです。このお寺を幸棟梁が建て直す時に、政治郎ざんに従って仕事をしましたが、この時の棟札は幸幾太郎になっているんです。これが明治三年です。荻神社をやる時は明治十年ですから、この時の棟札は花田になっています。大音寺を政治郎さんに従ってやったことになります。そして竹田で花田さんという酒屋に見込まれて、ぞこに養子に行ったわけです。今の花田組の当主は四代目です。竹田では花田組と松井組が建設業で知られておりますが、花田組の当主は代々幾太郎を受け継いでいます。だから今の四代目も幾太郎です。大音寺とか荻神社の棟札に幸政治郎さんの横にその名前が出ております。そして今、その子孫が花田組という建設業をやっております。そのことを皆さんに承知してもらっておきたいと思います。それから同じ明治拾年に大分郡葛木村の鉾神社、これは葛木に行きますと、一間社の流れ造りの本殿が現在もございます。だいぶん痛んでおって、最近屋根も葺き替えております。
西南の役で財をなし公共建築の建設へ |
●明治拾年四月、西南の役が起こりまして、西郷隆盛の兵が竹田になだれ込んで、全市が悉く烏有に帰すというから焼けてしまったんでしょう。その時幸政治郎さんはどうしたかというと、先見の明ありで、焼けたから家が建つぞというので、材料を手当しておかなければと、近隣の山林を買って、建築材料を用意したのです。家を建てる人の多くは、その材料を皆幸棟梁に托すというのですから、猫の手も借りたい状況で、この時に、今迄損をした分を取りもどそうと頑張ったんだろうと思います。名声大いに上り、幸政治郎棟梁に頼んで家を建てるということで、当時の建築数七十余戸の多きに至りというんです。爾後公私建築の請負その数、枚挙にいとまなし、作っても作ってもという本当に忙しい仕事をしました。今顕著なものを挙げれぱ、明治十一年に竹田町裁判所、警察署、十四年に大分病院をやっています。
●続いて竹田町の万徳寺の本堂、それを三年かかって完成、十六年に大分県庁舎、今文化会館の処に建っておって壊したのは大正で、その前に建てたものです。それから大分中学校、この前壊した本館は明治二十七年で、その前にあったものが幸棟梁の建てたものです。
●同十八年大分裁判所、同十九年速見郡中山香郷社八幡社、この辺になりますと大分以外の処で仕事をやっています。同二十年大分舞鶴橋、木橋でしょう。同二十二年宮崎県裁判所、五十四才くらいですからこの頃になりますと大分県以外でも仕事をしています。宮崎県迄行って公共建築をしているんです。明治二十三年十月一日出版の長者番付にでておりますので、この頃は幸棟梁が一番仕事もされておって脂ものりきった時と思います、同二十三年速見郡別府警察署、同二十四年別府定席松涛舘、私は別府生まれですけど、松涛舘というのは松原公園にありまして思い出の多い劇場です。
●豊前の方では、明治二十五年に中津の裁判所から宇佐郡四日市の警察署、北の方で仕事をされています。二十七年妙見菩薩(願成就寺山門)、二十八年大分に長栄舘という娯楽施設、二十九年には北海部郡臼杵裁判所、三十年朝見病院これは朝見神社の横にある別府では病院の先駆です。これを建てた因縁で、そこに入院することになりました。病院を建ててそこに入院をしたのだから、病院が大事にみてくれたことと思います。三十年から三十二年病魔の襲う処となり朝見病院にて治療し、病勢やや衰えましたので、三佐に帰って療養し、最後の仕事が野坂神社の神楽殿で、これが最後の建築となっています。亡くなられたのは、明治三十三年九月九日です。
●幸棟梁の人柄は寛宏、博愛、仁慈で、公私事業に率先参加し、貧しい人達を救うことをボランティア精神で一生懸命やりました。晩年は家産大いに富み、弟子八十余人、この道の俊才亦少なからずで、非常に弟子の育て方がうまかったんじゃないでしょうか。蓋し真に世の大家というべしといわれるほど明治の大分県の建築界に貢献しました。あとは家庭の事情で、二男二女をもうけ、長男多久馬は家を繼ぎ建築業を営み、次男辰雄は浜田家を継ぎ二女は皆分家しています。そこで弟子達が、旧恩を感じて協力一致してこの石碑を建設す。ということで碑文が終わっているわけです。
墓碑を建てた弟子たちのこと |
●そこで、幸さんの功績を称えてお墓を作った訳ですけれど、幸政治郎さんの碑建設の発起人が弟子の幸両吉さん、幸森平さん、吉岡麦吉さん、この辺になると皆さん方がご存じの方があると思うんです。
●幸両吉というのは、最近海潮寺の本堂の改築をした別府の幸建設の幸康男さんの祖父で、この人が幸両吉さんの孫になるわけです。幸康男さんのお父さんは山村家から幸家に養子に来ています。お祖父さんは本人が六才の時に亡くなりましたが、荻神社の建設碑には幸両吉さんの名前を幸良吉と書いてあります。
●幸森平さんという人はよくわかりませんですが、野坂神社の拝殿を昭和四年に作ってあるんです。その棟梁が幸森喜さんですから、幸森平さんとどんな関係があるのでしょうか。
●吉岡麦吉さんも野坂神社の拝殿が昭和四年に建った時に関係しております。吉岡麦吉さんは、本殿の屋根を銅板に葺き替えるときにも関係しています。これはお宮さんに棟札がありますのではっきりしています。そういう人が発起人の主なメンバーです。その後世話人がずらっと東西南北の台石に刻銘してあります。その中に家の祖父さんだとか、曾祖父さんだとか、という方がいらっしゃいましたらご連絡頂きたいと思います。
●私が此処でずっと見ていて、皆さんにお間きしたいのは、犬井初吉さんという名前が東の台石にあります。
●野坂神社の本殿が享和二年(1802)十九世紀の初めに再建された時の棟梁が犬井武左衛門というんです。それから、文政年間にいろいろと修理したり、あたっている時に、お船手の大工で犬井伴五郎という人がいます。この姓の人が江戸時代の文政期の三佐大工の棟梁の中で非常に優秀な技術を持っておった人ではないかと思うんです。若し、犬井という棟梁さんの何かのことがわかるような文書が、皆さん方が調べられる中にありましたらご連絡頂きたいと思います。そして、そのもう一人の先輩は、これはまえに説明しました河井權左衛門直国という人です。この棟梁さんのことも皆さんに調べて頂きたいと思うんです。
●幸政治郎さんは、その先輩の流れをひいておられる。それで、三佐大工のルーツを皆さんと一緒にきちんと作って行きたい。この会の皆さんのお力を借りまして、そして、何か三佐大工のことで、お手許に資料があったり、知っておられることがありましたら、私の方にご遵絡頂きたいと思います。
●「幸さんの人生は三佐大工の核となって明治時代に活躍し、その御蔭で三佐に多くの大工さんが育ち、県内第一の二百人をこえる技術集団を作りました。北海部郡や大分郡は大工さんが非常に多いんですが、専業大工の多いのはまさに三佐なんです。この碑文を読んでいると、近代の大分の建築は幸政治郎さんをトップにして三佐の大工さん達が主力になって活躍をしたということがよくわかります。」
●幸政治郎さんの人生を通して三佐大工のお話をしてきました。ちょっと長すぎたようにありますが、この辺で終わらせて頂きます。