文化の一揆 |
●岡藩ゆかりの地三佐と、臼杵藩の家島、今日はその両方に関係のあります江戸時代後期の、文化八年から九年にかけて起りました文化一揆の話をしてみようと思い資料を準備してみました。
●この一揆といいますのも、病気と同じで一揆になる前には随分長い潜伏期間があるのです。三佐・家島での一揆は、ここが一揆の中心地でなかっただけに台風と同じでさっと通り過ぎてしまった感じで、家島のお話をするのも、ほんの一言ですんでしまい、申し訳ないなあという気がするんですが、家島では若干一揆の影響が出ていますので、その話を含めて少し引きのぱしてお話してみたいと思います。
●最初に文化の一揆というのは、どんなものだったのか、竹田に起こりましたので、その竹田から概要を話してみたいと思います。
●江戸時代、岡藩七万石と言われましたが、この七万石は、領内で開墾が進めぱ若干稲の取れ高は増えるでしょうけれども、七万石という石高は大野、直入郡を中心とした七万石そのまま、(この三佐も入りますけど)それがずっと幕末まで同じ石高でしたので、今で言いますと、会社に就職して、例えば二十万円で採用されたら、その月給二十万円のまま定年退職するまで少しも変らないのと同じです。私共の家庭では子供が大きくなり、出費は増えてくるのに収入は新採用の時のままだというのでは、これはやっていけないですね。藩の財政も同じだったわけです。だから何とか財政を豊かにする方法を考えることが財政担当の役人の仕事だったわけです。
●一枚目のブリントの表は、岡藩の江戸中期の宝永五年から江戸後期の文政元年迄の石高の動きを示したものです。これは一番下の横線が大豆の採れ高、中の横線が米の採れ高、そして大豆の採れ高と米の採れ高を合わせたものが、いわゆる年貢となって藩に収められるのです。一番左側の宝永五年の線を下から見ますと、これは石高を示しておりますので、七万七、八千石の実収入があったことになります。ところが、それから段々右の方に下っていきますと、享保年間に入りまして、いわゆる享保の大飢饉という大きな落ち込みがあります。この大飢饉で、本来七万石位なければならない収入が四万石弱に落ち込むという、こんな大凶作です。それは一、二年で持ち直しますけれども、この時の赤字というのは、藩にとっては大変な赤字でずっと続いていくわけです。そして、鋸(のこ)の刃の様に凸凹が続いて行きますけれども、宝永五年の線には幕末まで到達することのないまま推移してしまったのです。
●そこで岡藩では、米大豆だけでは財政再建は出来ない、別の収入を考えなければならないと考えるようになりました。そこで新法の採用となりました。
●岡藩では、文化年間に入りまして横山甚助という役人が登場しました。中川氏が播州三木城から岡藩に転封した時に従って来た昔からの家臣と、岡藩に来てから途中で採用された、いわゆる新規採用の家臣が居るわけですが、横山甚助は途中から入って来た家臣です。彼の父親が岡藩に途中採用され、そして横山甚助は二代目になるわけです。父親の代は身分の低い家臣でしたが、横山甚助は大層計算の上手な、先の見えるといいましょうか、経済的に明るい人だったため見出されまして、段々出世して参りました。そして逐に文化年間になりますと、岡藩の勝手方御用掛という、いわぱ財政担当に抜てきされました。彼は二代目ですが、昔から岡の家臣だった人から見れば新米です。その新米のくせに、勝手方御用掛などという奉行に任用された、俺を追い越していった、そういう妬みを持つ武士もおそらく出て来たろうと考えられます。
●横山甚助は勝手方御用掛になってどんなことをしたかというと、先ず藩の財政を立て直しに取り組みました。これは岡藩だけではなくて、全国の藩が、江戸中期ごろから、赤字赤字で苦しむようになりました。大坂ですとか、大名の城下町の御用商人などに御用金という名目で借金したり、寄付をさせたりして何とかやり繰りをしました。若し、これが民間会社であれぱ、元禄年間を過ぎた頃、日本の総ての藩が倒産したのではないかと思います。それが封建制度という制度のもとでは藩をつぶすわけにいかないという意識が町人達の間にもあったようで、藩に対して相当な金を貸していても、それを無理やりに返せというようなことも言えなかったわけです。岡藩も例にもれずですから、財政の立て直しということになりまして、横山甚助が幾つかの役所を作ります。
●その一つは御物会所といわれる役所です。それから製産会所、塩問屋、諸品中継問屋、こういう様な役所を作りました。どんなことをするのかといいますと、御物会所、製産会所というのは、農民が生産した産物を勝手に仲買商人とかに売ってはいかん、全部藩の御物会所、製産会所という役所におさめろ、藩が買い上げるというわけです。御物会所というのは穀物を扱いました。製産会所というのは材木ですとか酒とか、農民が作る草履だとか縄とか足半(あしなか)とか、そういう物を横山甚助が農民に割り当てて、夜なべをせよ、男はあしなかなら一晩に三足、縄なら十二尋、そしてそれを藩におさめよ、それがおさまらない時はその分の金をおさめよと命じました。そして昼は昼で働かねぱなりません。時たまならあしなか三足位は出来るかもしれません。しかし毎晩ということになったらそれは大変なことです。大変厳しい負担が農民に課せられたわけで、藩はそれを御物会所、製産会所を通して農民からおさめさせた物を藩営の役所を通して売るという寸法です。
●それから塩問屋、諸品中継間屋というのは農民の方が買う物を扱う役所です。塩は無くてはなりません。その塩も行商から買ってはいかん、藩の御用商人の塩問屋からでなければ買ってはいかんというわけです。藩はこの塩問屋から運上金という税金を取るわけです。それから諸品中継問屋、これも同じく農民が買いたい物は、この問屋を通して買う、菜種は中継問屋を通してでなけれぱ売れない。藩はそれを大坂に持って行って売るわけです。
●横山甚助の一連の経済政策は、新しく出来た法律ですのでこの法律を文化の新法とも云います。農民の方はこれではたまったものではありません。「こんなことでは、俺達の生活が出来ん」というような不満があちこちでくすぶり始めるわけです。
●その時たまたま岡藩では藩主久持が亡くなりました。中川氏の場合は養子を貰う場合は中川氏の血筋が絶えてはいけないので養子となった藩主の正室は必ず中川一統から迎えるという不文律が出来上っていました
●ところが横山甚助は急ぎ養子に大和郡山藩から十代藩主となる久貴を迎え、正室の件は無視してしまった。
●彼は新参でありながら藩の重要事項にまで手を伸ぱしました。それに対して家臣達の中には不満を持つ者も出て来たと思います。それで農村の中にくすぶり始めた反新法の不満がある、それを上手く利用して、横山甚助の追い落としを図ろうとした一派があったのではないかと思います。
●この事は書いた物は残っておりません。しかし次のような回し文が回わされました。それは「しみのやどり」という記録の中に出て来るのですが、それを読みますと、「幕府から貰った朱印高は七万四百四十石である。そして幕府の定めた税率は四ッ物成ということになっているけれども、それは二万九千六百石でなくてはならない。ところが岡藩は米、大豆合わせて七万一千七百十石余りを徴収している。だから朱印高に対して九ッ六歩余に当たる高額の税を取っている、これは取り過ぎである。実際の知行高も朱印高が七万四百石余りであるのに対して、一万七千十四石余り実際の取れ高が多い。これは幕府に対して石高を隠していることになる。で、幕府に対して石高を隠していることを訴えるつもりである」といった内容が書いてあったようです。それからもう一つは、先程申しました様に「養子を貰った時には中川家の血筋の者を正室にすることになっているのに、それをしてない、これはけしからんことである」ということも書かれていました。
●藩の石高や年貢の高あるいは正室のことなど、農民が知りえないことが回文に書かれているということは、反横山一派の誰かが横山甚助を追い落とすために、農民の中にくすぶりが上り始めた動きを利用しようと策動したのではないかと思われてなりません。或は私の勘ぐりかもしれませんが。
●ともかくそういうことがありまして、文化八年(1811年)十一月十八日の夜一揆が発生しました。先ず何処に発生したかと言いますと岡藩の西の方の四原(よはる)という地域です。葎原(むくらばる)、柏原、恵良原、(以上荻町)菅生原(竹田市)この四つの原、すなはち四原地方の農民が一揆を起したのです。二千人という記録もあれば、四千人位という記録もあってはっきりしませんが、とにかく大勢の人達が竹田の玉来に押し寄せました。「十六才以上の男は総て、竹槍か鎌か、山刀などを持って出よ。若し出て来ない者があれぱ皆で押し掛けてその家を打ち壊すぞ」というように村中をふれて回るわけです。だから皆出て来ます。そしてむしろ旗を立てて、玉来にやって来ました。そしてさらに竹田に入りまして、山手河原に押し出しました。(昔竹田の女学校があった処を山手といっておりましたけれども、あの辺の稲葉川の河原だと思います。)
●藩では町の中に入って来られたら大変だというので、長尾助五郎が鉄砲隊三十人程をつれて山手河原に出向きました。しかし鉄砲を打ったりすることになったら大変ですので、先ず話し合いと、代表者に申し分をたずねました。農民達は、「御物会所、製産会所、塩問屋、諸品中継会所などがあって俺達の生活は苦しいんだ」と訴えました。これは農民が書き付けを出したものでは無いと思います。それで、この話を調べた人によって、要求項目が若千違います。
●これは「党民流説」という資料に書かれている百姓の願いです、「御物会所差止め、それから製産会所、塩問屋の差止め、それから御家老一人、横山甚助、および志賀小太郎、朝倉平之進、明石屋惣助、(この明石屋惣助という人は犬飼町の商人で、この新法によって大変な財をなした商人なんです)などの人々を百姓に下さる様」という願がその主な願です。これらの人々に対しては、「自分達は毎晩縄十二尋とか、あしなかご一足とかを作らされたので、そんなことが一年も二年も続くものかどうか」こんな人に、これからしてもらいたい、だから農民に払い下げてほしいという要求です。それから「開き畑増上納の御免、(即ち本来の畑があり、その周りを若干切り拓くと、去年よりこれだけ広くなっているから、という具合に税を掛けられたが、そんな税はやめてほしい。それから中角新井手工事の差止め、(井手を作り畑や田んぼに水が引けるというのだから、井手を作るのは生産増強ということで、藩の方から見たらプラスになることですけれども、それが完成するまでには農民が大変な労力奉仕をしなけれぱならなくなり、そんなことをしていたら、自分達の農作業が出来ないということです)。次に御蔵納米の改方の復旧、(これはどういうことかというと、昔は俵に米を入れておりましたが、俵に詰めた段階では、びっしり四斗なら四斗入れて、俵こしらえをしているんですが、それを牛に積んだり、馬車に積んだりして、所定の処まで運ぷ。またそこで降ろして、積んだり、そうこうする間に段々こぼれるわけです。藩の御蔵に納める時に一俵という形で受け取るのではなく、そこで一度俵を解いて、そして量り直して新たに俵を作り直します。そうすると村を出る時にはきちんと一俵あったのですけれども、少し目減りして四斗にならないようなことが発生するわけです。だから目減りを防ぐために口米といいまして、これを補う口米を二升プラスしていたのですが、それが大変厳しかったということですから、以前のようなゆるやかな検査にしてほしいというものです)。それから助合穀(裸麦、小麦、米)等、飢饉の年に備えて囲籾をしておいて、これを飢饉の年に使うということなのですけれども、毎年これを取られたのでは農民はたまったものではない、だからそれはやめてほしい。それから仕出し夜なべの品上げの差止め、(つまり先程言いましたような縄、あしなか等の品上げをやめてほしい)それから草茅野連上の差止め、(家が茅葺き屋根ですから、皆茅場を持っているそれに雑税がかかっている、そういうものをやめてほしい)等々の要求が出されたようです。
●それからその下の(ロ)の資料は「外聞之書付」という、これは岡藩に一揆が起りますと、岡藩と境を接しております熊本藩の久住の代官が密偵を送って、どんなことで一揆が起ったのか、どうなるのか、領内に波及して来はせんか、そんなことをつぷさに調べさせたものです。(熊本藩の豊後領は鶴崎、野津原、久住にありました)これによりますと、「横山甚助を百姓に下さるよう、明石屋惣助を百姓達に下さるよう、志賀小太郎、朝倉平之進を百姓達に下さるよう、(志賀小太郎、朝倉平之進という武士は横山甚助の手足になつて働いた武士です。だから農民から見たら横山甚助と同じ様ににくらしい武士、役人だったので、これを下さるようにと言うものです)それから御物方、製産方、塩問屋の差止め、新田、新井手の差止め、夜なべ運上の差止め、荒地年貢の御免、(これは本来畑にしてもいい様な処が荒地になっている。これは畑にしない方が悪いのだからというので、これに対して税を掛けていたようで、こんなことはやめてほしいということです)上納米、大豆の粒選びの御免、(これは岡米、岡大豆という呼び名で、大坂で銘柄に選ばれていましたので、従来は岡藩は普通の年貢として米を納めさせ、大豆を納めさせていましたが、大坂の市場で岡藩の大豆が人気になり、岡大豆の値段が決まらないと、その年の全国の大豆の値段が決まらない、ということになりましたために、岡藩としては大豆の粒のいい物を大坂に送ろう、そうすると、一屠大豆の値段が上るというので粒選びをさせる様になったのです。米の場合も同じです。このため農民の側としてはそれまでは普通に大豆を作り、普通に米を俵に詰めて納めればよかったものが、厳密に選別されるということになったため、これに反発したと考えてよいと思います)町内酒屋での呑み小売の禁廃止、大庄屋手付頭取の廃止、高一石に付き米一升取り立ての御免、(高一石に米一升を余分に取っているこれは止めてほしい)それから家中渡り奉公人の軽減、(武士の家に走り使いをする奉公人が村に割り当てられていましたが、その人数を少なくしてぽしい)米穀他所売りの許可、(年貢米を割り当てられただけ納め、大豆を割り当てだけ納めて、自分の手元に若干余裕があれぱ、これは百姓の自由にしてほしい。それを他所の商人に売ってもよいと思われるが、それも御会所で全部買い上げるということになっているので、そんなことは止めてほしいということです)牛馬他所売りの禁止、田畑打ち出しの免除、(これは新しく開墾したものをすぐ本年分の税に繰り入れるのは止めてほしい。開墾してから直ぐというのは作物が出来るものではないからというものです)鉄砲札運上の免除、(何人か村に鉄砲を持った者が居ました。今日でも猟銃は許可制ですが、当時も許可制でしたから税金小物成がかかりました。それを免除とありますが、減額してほしいということか、あるいはおどし鉄砲という実弾を打たず、烏、猪の被害から作物を護るための鉄砲も村に何人か持って居た様ですので、そのおどし鉄砲に税を掛けるのは止めてほしいという意味かと思います)問屋二重口銭の禁止。
●これは、密偵は農民側の要求を聞き書きしたものだということです。