350年の歴史をもつ三佐の人形山車 |
昔は海上交通のかなめ、今は新産都の背後に
○三佐の地は、乙津川、原川、別府湾に囲まれた島で、元和9年(1623)松平忠直卿府内藩お預けの時に、今鶴村の替地として岡領となり、家島は、乙津川、大野川、小中島川、別府湾に囲まれ、臼杵藩の領地で、何れも藩主の参勤交代には船の発着地であり、更に別府湾から瀬戸内海、関西へ通ずる海運の要港として、江戸時代から明治の初めまで栄えたことは、当時の交易記録に三佐浦の名が見られることで窺えます。
○そして現在は、臨海工業地帯1号地、2号地の背後地として、その建設以来、大分県の工業立県政策に協力寄与してきました。
考察:原文では小中島川は今はないと書かれていますが、小中島川という名の川は現在でも当地にあります。恐らくこの筆者は、昔のような小中島川は今はないという意味で書かれているのでしょう。
京都祇園が本家、彫刻に三佐大工が腕を
○三佐の祭りは、岡藩4代目藩主中川久盛公の頃から始まったといわれていますから、ほぼ350年の歴史をもっています。
○人形山車は大正の頃までは、各町内の腕自慢の大工の競作で、御殿に彫った四季昼夜八景の彫刻は、京都あたりからも専門家が訪れる程の名作です。
○山車には人形が3体乗っていますが、昔は歌舞伎などから、その一場面が、最近ではテレビの時代劇ドラマに題材をとったものが多くなりました。この人形は地区内にある三浦人形店が毎年作っております。また、別府のラクテンチの菊人形をはじめ遠く関西、中京方面の菊人形も、この三佐の人形師作であります。
考察:350年以上の歴史とよくいわれてますが、、、。どうも調べれば調べる程、意外と新しい祭りであることがわかってきていますが。まー新しい資料が掘り出されるのを待っていましょう。
人形山車と三佐太鼓 ぜひ、文化財として保存を
○人形を乗せた山車に、町内の子ども達が太鼓と鉦(かね)で囃子をつけます。これが「三佐太鼓」といって、京都の祇園祭りに三佐の住民を上洛させて習わせたといわれ、昭和48年NHKの、最初の「おおぶろしき、こぶろしき」に出演しました。
○昔から伝わる由緒あるこの人形山車と三佐太鼓は、是非、文化財として永く残したいと考えております。どうぞ皆様のご支援をお願い申し上げます。
考察:原文では京都の祇園祭りに上洛させた人々が誰たちであるのかが、抜けて、分りにくかったので「三佐の」と新たに挿入させていただきました。それと、三佐太鼓が人形山車の太鼓とは、、、ちょっと現代では納得が、、、えー私としては、三佐太鼓といえば大村か八坂か中村か薬師堂の太鼓山車及び担ぎ山車をすぐ思い浮かべます。まー人形山車のお囃子は鉦ばかりが目立ちますが、太鼓が基本だっていうことの証ですね。
すごい写真です。先頭は裏町です。2台目は龍の感じから仲町だと思われます。 |
以上の文は、昭和59年8月3日、大分市の七夕祭りに要請を受けて参加したときに配布したチラシの内容です。(なんとわたしが25歳ですよ。若かったなー。行きましたねー。)