雅楽の歴史


「雅楽」という言葉は、俗楽に対する「雅正の楽」という意味をもっており、大宝令(701)で創設された雅楽寮(うたまいのつかさ)で所管された外来の音楽と舞を指していました。現在、雅楽という言葉は狭義ではこれら外来の音楽と舞(管絃・舞楽)のみを指す場合が多いのですが、正式には日本古来の音楽や舞(国風歌舞)や平安時代に新しく作られた歌曲(催馬楽・朗詠)を含めた総称を「雅楽」と呼びます。
 雅楽寮に始まるこれら雅楽の伝承は、現在の宮内庁式部職楽部(くないちょうしきぶしょくがくぶ:重要無形文化財団体指定/総理府技官)に至るまで、1200年以上も形を変えることなく綿々と受け継がれています。また、現存する合奏音楽としては世界最古と言われており、その音楽的あるいは歴史的価値が高く評価されています

引用サイト…「雅楽HP」


612年、百済の味摩之なる人物が、中国南方で広まっていた伎楽を日本に伝えた。当時、推古天皇のもとで摂政として政治の中枢にいた聖徳太子は、仏教の厚い信奉者としても有名であるが、彼はその仏教を国内に広めるためには音楽が必要であると考えた。そこで太子はこの伎楽を仏寺の祭楽にしようと考え、大和の桜井というところで、少年たちにこの音楽を習わせた。この少年たちは、日本で初めて音楽を職業とした人たちだと言われている。


 伎楽(ぎがく)とは、面をつけた踊りとともに野外で演じられる舞踊の音楽のことである。衰えながらも江戸時代までは残っていたらしい。伎楽で使われた面や衣装などは今でも正倉院に保存されている。


 日本には大陸の各地のいろいろな音楽が伝えられている。中でも、唐楽(中国)と林邑楽(ベトナム)、渤海楽(中国東北地方)などが雅楽に発展し、声明や盲僧琵琶(インド)などは、少しの後の平曲や浄瑠璃、民謡などに影響を与えたといわれている。


 701年、大宝律令が制定されると、朝廷の音楽を司る役所が作られた。これを雅楽寮という。この雅楽寮は、国が法律で設置した最初の音楽学校ということができる。


 内容としては、音楽技術の習得が主であった。雅楽寮で扱われる音楽は、百済、新羅、高句麗などの朝鮮半島より伝わった三韓楽や、中国の唐楽、舞踊と和楽であった。これらは大陸音楽が伝わる以前より朝廷で行われていた音楽であった。設置当時、ここで音楽を学ぶ人(楽生)は364人いたが、そのほとんどが和楽にたずさわっていたということである。雅楽寮は朝廷におかれ、国家の儀式や大寺院の法会などに参加した。楽師の中には音楽や舞踊の先生として天皇や貴族に接し、特別な地位につく者もいた。

 752年、奈良東大寺の大仏開眼会が行われた。インドから来たバラモン僧が導師となり数百万の僧をしたがえての大法会であったその時、東大寺の中庭では、供養の舞や音楽が、数百人の音楽家たちによって行われたと伝えられている。その時に使った楽器、装束などが正倉院に保存されている。

  894年に、菅原道真の勧めで遣唐使が廃止されたこともあって、平安時代には日本独特のものを尊重する風潮が高まった。後に、「国風文化」と呼ばれる文化が広まっていったのである。その影響は、美術や工芸だけでなく、音楽にも及んでいた。和楽には大歌所、舞楽には楽所が設けられ、より上品な者をめざしていった。宮廷貴族の生活の中に雅楽は深く入り込み、専門楽人だけではなく、天皇以下、公卿・官僚・武人までもが宮中の行事や御遊に参加したという。そんな中、源信、藤原貞敏、源博雅などが作曲を手がけた。

 雅楽は、「雅正の楽」つまり上品な音楽ということを意味している。雅楽がこのように上品な者として扱われはじめたのは平安時代からであるが、それは日本の雅楽が当時の天皇たちの監督のもとで改革されていったものであるということが大きく影響しているであろう。

 しかし、平安時代の末期を迎えると、宮廷文化を支えていた貴族の力が衰え、それに伴って雅楽も衰退していった。その後は、京都・奈良・大阪の三方楽人の手に移り、職業化され、世襲されていった。

 江戸時代に入り、雅楽は儀式楽として京都御所と江戸城紅葉山に集められた楽人たちによって行われるようになった。

 明治に入ると、それらは宮内庁雅楽局に収容され、縮小されていった。

 現在では、宮内庁雅楽部が中心となって雅楽の保存に力を入れている。このほか、伊勢神宮、天王寺、春日神社などの神社仏閣にも残っている。

引用サイト…「矢作北小雅楽部」