年中行事と雅楽 |
平安の昔、節会(せちえ)・宴(うたげ)・祭りと、何かにつけて雅楽が色を添えていた時代、「どんなときにどんな曲を演奏していたのか」ということを少し調べてみた。雅楽の殆どは、その曲自体の意味を持たない。にもかかわらず何々の節会にはこの曲、何々の宴にはあの曲と、定められている場合が実に多い。それ等を抜き出してみよう。
元正(がんしょう) |
元旦節会ともいう。楽の調子は双調(そうじょう)である。曲は「胡飲酒破(こんじゅのは)」「酒胡子(しゅこうし)」の二曲を立楽(たちがく)(節会の時楽人が庭に立ったまま演奏すること)で必ず奏していた。
臨時客(りんじのきゃく) |
平安時代、年始に、摂関・大臣家で大臣以下の上達部(かんだちめ)を招いて行なった饗宴。時には皇太后宮、中宮などでも行われた。「臨時」というのは大饗のような公式のものではないという意を表す。この時の楽は決まっていなかったらしい。
白馬節会(あおうまのせちえ) |
正月七日、天皇が左右馬寮(さうめりょう)の引く「あおうま」を見る儀式。はじめは豊楽院(ぶらくいん)で、後には紫宸殿で行われた。弘仁二年(八一一年)嵯峨天皇の時から儀式として整うようになった。
馬は日の獣で、青は青陽、春の色は青であることから、この日に青馬を見れば年中の邪気を避けるという大陸の行事を輸入したもの。古くは「青馬」と書き、延長年間(九二三〜九三一) 頃から「白馬」と書くようになった。
平安末期より古い儀式の衰退に従って、馬の数も二十一頭から次第に減少し、応仁の乱以後は途絶え、代って七草の節会が盛んになった。
調子は平調(ひょうじょう)。曲は三台塩急(さんだいのきゅう)と鶏徳(けいとく)を例年奏している。
上元(じょうげん) |
中元・下元と共に三元の一つで正月十五日を指す。いわゆる七種粥の日だが昔は草ではなく、米・大豆・小豆・粟・栗・柿・小角豆など、七種類の穀類だったらしい。
「平調の中から四・五曲を用いる」とあって特定の曲はない。
卯杖(うづえ) |
邪気を払う杖。正月上の卯の日に大学寮から、後には諸衛府・大舎人寮から柊・棗・桃・梅・椿などを五尺三寸に切り、五色の糸を巻いた杖を、天皇・中宮・東宮などに献上した。
持続三年(六九九)正月に初めて行われ、平安末期には行われなくなった。
紫宸殿において雅楽寮の楽人が奏した、とあるが何の曲かの記述はない。
踏歌節会(とうかのせちえ) |
天皇が紫宸殿で踏歌を御覧になり、そのあと五位以上の群臣に宴を賜った年中行事。
立楽と舞楽の両方あり、立楽は賀殿急(かてんのきゅう)、酒胡子(しゅこうし)又は胡飲酒(こんじゅ)。舞楽は、振鉾(えんぶ)、万歳楽(まんざいらく)、廷喜楽(えんぎらく)、桃李花(とうりか)、登殿楽(とうてんらく)、陵王(りょう)、納曽利(なそり)の七曲で、退出音声(まかでおんじょう)には長慶子(ちょうげいし)と盛沢山である。
賭弓(のりゆみ) |
朝廷で正月十八日に、近衛・兵衛の舎人の弓射を試みる儀式。天覧があり、賭物(のりもの)を出される。
賭弓が終わって後、勝った方の大将の邸で行なわれる饗宴を賭弓(のりゆみ)の還饗(かえりあるじ)と言う。舞楽だけで、陵王・納曽利。
曲水宴(ごくすいのえん) |
令の規定にも定められた内裏(だいり)の行事。中国の上巳(じょうし)の節句を伝えて巳の日の祓としたが、奈良時代から三月三日となり、朽関時代には貴族の邸でも行われた。庭に曲溝を作り水を引き入れ、公卿たちがその両側に座って酒杯を浮かべ、上流から流れてきて自分の前を過ぎないうちに詩歌を詠じて酒杯をとって酒をのむ宴。(この日人形を流すことも行なわれ、それが後世のひな祭の起源といわれる。)
この行事は有名で、現在民間で復活して行われている。旧暦と違って新暦では桃の花には早いのではなかろうか。
黄鐘調(おうしきちょう)の桃李花(とうりか)を奏する。
桜宴(さくらのえん) |
観桜の宴。紫宸殿・清涼殿で天皇・東宮・中宮をはじめ貴族・文人・女房等が集まり、詩歌管絃を楽しんだ。弘仁三年(八一二)嵯峨天皇の御代の神泉苑での花苑が最初とされる。
管弦と舞楽の両方が盛大に行われたが曲目は決まっていなかったようである。終日、歌い、奏し、舞い、そして飲食したらしい。
駒率(こまひき) |
毎年八月十五日(後には十六日)諸国の牧場から献上された馬を天皇が御覧になる行事。
この日は舞楽が奏される。曲目は陵王・納曽利・蘇芳菲(そほうひ)又は抜頭(ばとう)、落蹲(らくそん)、近衛府による東遊(あずまあそび)の曲名もみえる。
端午(たんご) |
五節句の一つ。五月五日の節句。あやめの節句、重五(ちょうご)などともいう。
舞楽で蘇芳菲(そほうひ)・狛龍(こまりょう)<廃絶曲>の名がみえる。
競馬(くらべうま) |
二頭の馬による競馬。五月五日にあった。きそいうまともいう。
打球楽(たぎゅうらく)、八仙(はっせん)、慶雲楽(きょううんらく)退出音声に長慶子などの曲名も見えるが、ここには珍しく舞人八人・笙七人・篳篥五人・笛六人と管方の人数が書いてある。
菖蒲根合(あやめのねあわせ) |
端午の節句の日、宮中で左右に分かれて菖蒲の根の長さをくらべて勝負(かちまけ)を争った遊び。
この日には御遊がある。永承六年(一〇五二)の記録をみると、内裏に於て行われ、菖蒲の根合わせは三番あって、右方の勝ち。後御遊とあり、主上御笛、拍子内大臣、和琴民部卿、筝二位中納言、琵琶経信卿、笙定長朝臣、篳篥隆俊と配役も書いてある。この年号から推察すると主上とは、後冷泉天皇と思われる。
七夕(たなばた) |
この日には必ず御遊があり、秋風楽(しゅうふうらく)、感秋楽(かんしゅうらく)<廃絶曲>を多く奏したとある。
相撲節会(すまいのせちえ) |
毎年七月、宮中で全国から強力の士を召して、相撲を天覧される行事。平安時代に盛んであった。
延長六年(九二八) の記録として、三台塩(さんだい)・皇仁庭(おうにんてい)・太平楽・胡徳楽(ことらく)・陵王・納曽利・還城楽(げんじょうらく)・狛犬(こまいぬ)の八曲を奏したとあるが、他にもこの節会の記述は多くあって、抜頭(ばとう)・剣気(けんき)褌脱(こだつ)等珍しい曲名や、廃絶した曲の名などもみえる。
この後にも、「仲秋」「重陽」「立冬」など行事が続くが省略して、珍しいものを二つだけ書いてみよう。
亥子(いのこ) |
十月の亥の日の亥の刻に餅を食べて万病を除き、子孫繁栄を祝う行事。猪は多産な動物なので子孫の繁栄を願ったともいう。
慶雲楽(きょううんらく)を用いた。
菊合(きくあわせ) |
人数を左右に分けて、両方から菊の花を出しその優劣を競う遊び。歌などを添えることもある。
万歳楽・太平楽・石川(いしかわ)・長保楽(ちょうぼらく)などの曲名がみえる。
子祭(ねのまつり) |
十一月の子の日に行われて、林歌(りんが)を用いるのだが、管楽器も打楽器もなしで、筝一絃にて奏すらしい。その次第が面白いので一寸書いてみよう。
机の上に大黒の像を置き、供物を供えて夜半を待ち、筝の奏者一人で林歌及び合歓塩(がっかえん)を奏する。「合歓塩は子祭の定曲ではないが、退出音声に用いる」とある。
この様に何の曲を奏するか決められている節会・祭・御遊などの回数の多いのには驚かされるが、この他にも何故この曲を奏するのか意味のよく解からないユニークなものがあるので少し抜き出してみよう。
○悪虫を去る曲…
甘州(かんしゅう)裏頭楽(かとうらく)還城楽(げんじょうらく)
○邪祟を辟(しりぞける)曲…剣気禅脱(けんきこだつ)蘇合四帖只拍子(そごうよじょうただびょうし)
○天変の時に奏する曲…蘇芳菲(そほうひ) 抜頭(ばとう)
○雨請の曲…河水楽(かすいらく)陵王 青海波(せいがいは) 胡飲酒(こんじゅ)
但し、昔の本にも「何故この曲を用いるのか解からない」とある。
○逆乱祈祷に奏する曲…安世楽(あんぜいらく)
天慶二年(九三九)平将門が反逆した時、この曲を奏して太平を願ったのが始まりとさ
れている。
○御祈祷に奏する曲…五常楽か感恩多(かおた)聖明楽(せいめいらく)
最後に面白い項目を一つ。
音楽を奏せざるの日 「日蝕の日には総ての音楽を奏してはいけない」としているが、日蝕の日と節会の日とが重なった時、どちらを優先させるのだろう。
こうして見てくると、嵯峨天皇弘仁十二年(八二一)の「内裏式」に始まる宮中の定められた年中行事に不可欠なものとして雅楽が組み込まれているが、これ等の基になっているのは古代中国の思想に基づいた(一)季節の節目、(二)邪気・悪疫を払う、(三)四季の移りを楽しむ、といった三種類ぐらいに分けられるだろうか。ただ、日本に入ってきたのは宴会音楽だけで祭祀音楽は入ってこなかったといわれるので、祭祀の場で演奏される音楽が、「何故この曲か」と不思議な感じのする曲が入っているのは仕方のないことかもしれない。
参考資料:「雅楽神韻」東儀俊美著