雅楽年表U(明治以前)

時代 外来音楽が伝えられる以前
縄文時代前期から中期 音楽に関係する出土品として、石笛・土笛・土鈴などがある。
弥生時代 主として西日本より銅鐸が出土。倭琴が出土。和琴の原形といわれる。
古墳時代 弾琴埴輪や奏楽埴輪が登場する。
神武天皇 戦勝を祝って「来目歌(久米歌)」を歌ったという記述あり。『古事記』 『日本書紀』
応神天皇 『古事記』によれば、「国栖歌」 この頃出来る。
景行天皇 天皇の御子、倭建命が崩ぜられた時、「誄歌」が出来る。
「神楽歌」の起源は最も古く、発生の年代は特定出来ない。日本に古くからある楽器。「笛・和琴・太鼓」など。

西暦 年号 摘要
四五三 - 允恭天皇の崩御を悼み、新羅王、楽人八十人を使わされる。『日本書紀』
五三一 - この頃日本古来の歌謡の一つ「東遊」が出来る。「東歌」といった。
五三八 - 仏教伝来。(元興寺縁起)五五二年(日本書紀)
五五四 - 百済より楽人四人来朝。百済の楽を伝える。
五六二 - 大伴狭手彦、百済より仏本・楽器等を持ち帰る。
五九二 - 四天王寺創建。聖徳太子、雅楽・伎楽を奨励。四天王寺に秦姓の楽人が誕生する。
六〇七 - 法隆寺創建。
六一二 - 百済から味摩之来朝して帰化。伎楽を伝え、大和の桜井で少年を集め伎楽舞を教える。
六七五 天武四年 能く歌う者をえらぶ。
六八四 天武十三年 正月の賀宴で小墾田の舞等を高麗・百済・新羅の楽人が大極殿の前で奏する。
六八五 天武十四年 伊勢神宮の式年遷宮始まる。
六八六 朱鳥元年 勅により楽事に専念する家系ができる。
六九四 持統八年 日本最初の都、藤原京できる。正月、漢人が踏歌を奏す。
七〇一 大宝元年 治部省に雅楽寮を設置される。
七〇二 大宝二年 正月の賀宴で 「五常太平楽」が奏される。
唐楽の曲名が初めて記録に出る。遣唐使粟田真人たち唐へ出立。
七〇四 慶雲元年 粟田真人、唐より「皇帝破陣楽」を伝える。
七一〇 和銅三年 平城京(奈良)に遷都。
京都厩坂(うまさか)寺を奈良に移し、興福寺と改称。
七一七 養老元年 吉備真備第七次遣唐便に加わって渡唐。
七一八 養老二年 薬師寺を奈良に移す。
七二六 神亀三年 相撲節会始まる。勝方に「乱声」を奏す。
 同 興福寺の西金堂できる。
七二七 神亀四年 渤海の音楽が初めて来朝。
七二八 神亀五年 歌舞所が置かれ、雅楽寮から日本古来の歌舞(神楽歌・東遊・久米歌等)は歌舞所の管轄に移る。
七三一 天平三年 雅楽寮で「唐楽・百済楽・高麗楽・新羅楽」等の歌舞を習う人の人数を定める。
七三四 天平六年 吉備真備、唐より『楽書要録』と銅律管を持ち帰り、翌年聖武天皇に献上する。
七三六 天平八年 天竺の僧、菩提倦那と、林邑の僧、仏哲等が太宰府に着き、仏哲が林邑八楽を伝える。
七四〇 天平十二年 渤海の巳珍蒙等によって渤海楽が中宮閣門で初めて演奏される。
七四三 天平十五年 五節舞を天皇(聖武帝)が作り、皇后が舞ったといわれる。
七四九 天平勝宝元年 天皇、太上天皇、皇太后、東大寺行幸。唐・渤海・呉の楽、五節・久米舞を奏す。
七五二 天平勝宝四年 東大寺大仏開眼。国風歌舞の五節舞、久米舞等と共に、外来音楽の唐楽、渤海楽、呉楽等
が盛大に演奏された。
七五六 天平勝宝八年 聖武天皇崩御。正倉院に御遺愛の雅楽器の他東洋諸国の楽器・舞面が納められる。
七五九 天平宝字三年 「内教房」の記述が初めて出る。「内教房」とは婦女子専門の雅楽に携わっていた部署の名
称で平安時代に盛期を迎え、その後は衰退した。
七八一 天応元年 大嘗祭に雅楽寮の楽及び大歌を奏す。
七九四 延暦十三年 桓武天皇、奈良より京都遷都。
七九八 延暦十七年 和邇部大田麿生まれる。
八〇五 延暦二十四年 最澄帰朝して天台宗を創設。
八〇六 大同元年 空海帰朝して真言宗を開く。
八〇七 大同二年 藤原貞敏生まれる。
八〇九 大同四年 雅楽寮に林邑楽師、度羅楽師を置く。
八一〇 弘仁元年 この時代よりしばらくの間日本人演奏家の中に雅楽の名人が輩出する。
八一三 弘仁四年 この頃、嵯峨天皇は新曲の製作を奨励して、正月の内宴に新作「最涼州」を演奏させ、又
南池院に行幸のときは、御自身が作られたといわれる「鳥向楽」が船楽で奏された。
八二一 弘仁十二年 内裏式が選進され、朝廷行事に於ける雅楽の使いかたが決められる。
八三四 弘仁から
承和にかけて
秋風楽・十天楽・賀王恩・承和楽・北庭楽・央宮楽・海青楽・拾翠楽等、現在も伝承され
ている名曲が続々と作られる。
八三五 承和二年 尾張浜主、遣唐便と共に唐に渡り、舞と笛を学ぶ。
八三九 承和六年 藤原貞敏、尾張浜主、唐より帰朝。
 同 大戸清上、唐より帰国途中、暴風雨の為歿す。
八四〇 承和七年 この頃(仁明天皇)より約一世紀の歳月をかけ、雅楽の日本化が始まる。楽制改革と呼ばれる。
八四五 承和十二年 尾張浜主一一三歳で「和風長寿楽」(春鶯囀)を舞ったと伝えられる。
八五〇 嘉祥三年 大歌所の名前が初めて出てくる。
八五九 貞観元年 『三大実録』に「催馬楽」という語が出てくる。
同年 宮中の清暑堂において御神楽が行われる。
八六一 貞観三年 北殿の東庭で左右近衛府の楽人の演楽あり。このころから楽人は近衛の官職を賜る。
八六五 貞観七年 和邇部大田麿六十八歳で歿す。
八六七 貞観九年 藤原貞敏六十一歳で歿す。
八八五 仁和元年 「仁和楽」が作られる。
八八九 寛平元年 賀茂神社の臨時の祭に初めて「東遊」が奏される。
九〇八 延喜八年 「延喜楽」「胡蝶」が作られる。
九一八 延喜十八年 源博雅生まれる。
九二七 延長五年 藤原忠平等により、「延喜式」が撰上され治部省に雅楽寮が置かれる。
九四二 天慶五年 石清水八幡の臨時の祭に「東遊」が奏される。
九四八 天暦二年 雅楽寮は「楽所」と名を改め、歌舞所も「大歌所」となる。
九六五 康保二年 雅楽寮火災により楽器・装束を焼失する。
九六六 康保三年 源博雅の『長秋譜』できる。
九八〇 天元三年 源博雅、六十三歳で歿す。
九八七 永延元年 この頃より内侍所の御神楽が、隔年十二月に行われるようになったといわれる。
九九〇 正暦元年 この頃源雅信により朗詠が作られ始める。
九九〇 正暦元年 この時代に、長い歳月をかけた楽制改革が完成し、楽器の編成が現在の形に統一された。
九九三 正暦四年 源雅信歿す。七十三歳。
九九九 長保元年 この前後、度重なる内裏の火災の為、左右衛門府、蔵人所に保管されていた舞楽装束が焼
失し、演奏に事欠く事態がおこる。
一〇〇二 長保四年 これより内侍所の御神楽、隔年に行われる。
一〇一二 長和元年 藤原公任の『和漢朗詠集』できる。
一〇二三 治安三年 この年の踏歌節会で「舞人の数が不足する」という事態がおこり、雅楽頭藤原為成に「もっ
と舞人を増やせ」との命令が下る。
一〇七四 承保年間 白河天皇のこの時代より、内侍所の御神楽が毎年恒例になったといわれる。
一〇九七 承徳元年 春日大社で盛大な舞楽があったが、その時の楽人の記述に「京都楽人と南都官人」とあり、
初めて「南都」という名前が出てくる。
一〇九五 嘉保二年 楽人大神惟季『懐竹譜』を作る。
一一〇〇 康和二年 多資忠、節(とき)方親子が殺害され、採桑老・胡飲酒の舞が京都では断えたが、堀河天皇の勅に
より秦公貞・源雅実等から伝授されて復活。神楽の秘曲は天皇自ら相伝された。
十世紀〜
十一世紀
康和二年 この時代、雅楽は貴族の財力と趣味、教養などに培われ、宮廷生活に密着して発展し全盛
期をむかえた。
一〇〇四 寛弘元年 紫式部の『源氏物語』『紫式部日記』ができ、その記述から当時の雅楽の隆盛ぶりが伺える。
一一〇〇 康和二年 この頃から宮中に於ける大饗や大臣、貴族の饗宴がしばしば行われ、雅楽寮の楽人の演奏
活動が盛んになる。
同二年 初めて「四天王寺楽人」という記述が現れ、所謂「三方楽人」という形はこの頃確立した
らしいが、この呼び名は後世のものである。
一一〇七 嘉承二年 この頃から一一二三年迄の間に、宮中における雅楽の演奏制度が完成した。
一一一八 元永元年 宇治平等院で京都楽人と天王寺楽人合同の舞楽が行われた。
一一二一 保安二年 藤原基俊の『新選朗詠集』できる。
一一三三 長承二年 大神基政『竜鳴抄(笛譜)』を撰す。
一一四四 天養元年 源頼吉(信西入道)千秋楽を作曲。
一一六七 仁安二年 この頃平清盛、厳島神社舞楽を興す。
一一七四 承安四年 絶えていた相撲節会が復活する。
この頃より今様が起こり盛んになる。
一一七九 治承三年 後白河天皇の『梁塵秘抄』が完成。
一一九〇 建久元年 藤原師長の 『三五要録』『仁智要録』この頃に完成。
一一九二 建久三年 源頼朝、鎌倉に幕府を開く。家臣らに京都より下った楽人に雅楽を習わせ、鶴岡八幡で雅
楽を演奏させる。
藤原師長没す。
一二三三 天福元年 狛近真の 『教訓抄』全十巻完成。
この頃猿楽の金春流起こる。後の能楽になる。
一二五二 建長四年 『十訓抄』できる。
一二七〇 文永七年 狛朝葛の『続教訓抄』完成。
一二八一 弘安四年 元寇に際し、後宇多天皇は戦勝祈願の為、内侍所において御神楽の儀を執り行われた。
一三三一 元弘元年 このころ吉田兼好『徒然草』完成。
一四六七〜
一四七七
応仁元年〜
文明九年
応仁の乱が起こり、これより十年の間京の都は戦乱に巻き込まれて焦土と化す。雅楽演奏
家達も離散し雅楽は急速に衰え始める。
一四七八
頃よリ
文明十年〜 乱が終わったが楽人の激減により、宮中の大きな節会等は、人数がそろわず行えない時代
が続いた。
一五〇九 永正六年 豊原統秋『舞楽口伝』をあらわす。
一五一二 永正九年 豊原統秋の『体源抄』十三巻完成。
一五七三 天正元年 この頃正親町天皇は、四天王寺の楽人五人を右方の舞人として京都に召す。
一五七七〜 天正五年〜 この頃より四天王寺楽人の宮中で演奏する回数が増えて、浪速より京の都に居を移す楽人
も出てくるようになる。
一五八八 天正十六年 豊臣秀吉、聚楽第に後陽成天皇の行幸を仰ぎ盛大に舞楽を天覧に供する。
一五九二 文禄元年 この頃後陽成天皇は、興福寺の楽人三人を召して、弱体化している宮廷の楽人に合同させ
た。ここに「三方楽所」という形が形成されて、大規模な舞楽会もできるようになった。
一五九八 慶長三年 豊臣秀吉醍醐寺で花見。大々的舞楽を行う。
一六二六 寛永三年 徳川家光、京都二条城に後水尾天皇をお迎えして舞楽天覧。四辻大納言「伊勢海」再興。
一六三六 寛永十三年 日光東照宮が落成。徳川幕府は舞楽装束、舞楽面など多数を奉納。
一六三七 寛永十四年 幕府は東照宮に楽人を置き、京都の楽人下向して「東遊」を伝える。
一六四二 寛永十九年 徳川家光の要請により、三方楽人の中から八人が江戸に下向。江戸城内紅葉山の徳川家康
の祭祀や法要の奏楽を行う。これが「紅葉山楽人」の始まりとなる。但し、大きな舞楽会
などの時は、京都から何十人かの楽人を招いた。
一六四八 慶安元年 日光東照宮に南都楽人を招き舞楽を奏す。
一六六〇 万治三年 徳川家綱の時、南都楽人の辻近元が師となり、日光廟に楽府を設ける。
一六六六 寛文六年 徳川幕府より楽人科二千石下賜の朱印が楽家五十一家に下る。
一六八三 天和三年 立后御節会の時、呂の催馬楽「安名尊」が再興される。
一六八七 貞享四年 東山天皇の時代、大嘗祭が復活。
一六九〇 元禄三年 安倍季尚の『楽家録』五十巻できる。
一六九四 元禄七年 長く絶えていた「東遊」が復活される。この頃、「朗詠」はわずかに四曲のみ伝承されていた。
一七一一 正徳元年 新井白石、「楽考」を著す。狛近家の『舞楽伝記』『楽名考』できる。
一七二七 享保十二年 岡昌名『新選楽家類集大全』完成。
一七四〇 元文五年 桜町天皇の時代、新嘗祭が復活。
一七五八 宝暦八年 四天王寺楽人の京都進出が盛んになる。
一七六八 明和五年 田安宗武の「楽曲考併に付録譜」完成。
一七八三 天明三年 賀茂真淵「神楽催馬楽考」できる。
一七八七 天明七年 「田歌」再興。この歌は天平勝宝元年や同四年の大仏供養にも奏された古い曲だが、永い間
絶えていた。
一七九〇 寛政四年 この時代、公卿・楽人共に熟達の士多く、数楽会が公卿・楽人の私邸で行われた。
一八一八 文政元年 「久米舞」が再興される。
一八二二 文政五年 小川守中の 『歌舞品目』できる。
一八六六 慶応二年 内侍所で三ヵ夜の御神楽が行われた。
一八六八 明治元年 九月二十日、東京遷都の為、京都より東京に居を移し始める。「楽人」を「伶人」と改める。
一八七〇 明治三年 京都・南都(奈良)天王寺(大阪)の三方楽人が東京に集結。江戸にいた紅葉山楽人と共
に宮中に仕えることになる。

*参考資料:「雅楽神韻」東儀俊美著