雅楽重要人物年表・業績等 |
*五十音順です
名前 | 生・歿年 | 業績等 |
あつみしんのう 敦実親王 |
寛平五年 (八九三) 〜 康保四年(九六七) |
宇多天皇の皇子。和琴・琵琶の名人。源家流歌物の始祖。「胡蝶」「延喜楽」の舞を作ったと伝えられる。 |
あべ 阿倍氏 |
ー | 京都楽人の一家。安倍姓。神楽・篳篥・右舞を家業とする。安倍季政(一〇九九〜一一六四) が楽祖といわれる。 |
あべ すえひさ 安倍 季尚 |
元和八年(一六二二) 〜 宝永五年 (一七〇八) |
元禄三年、三大楽書の一つ 『楽家録』全五十巻を著わす。 |
あわたの みちまろ 粟田 道麿 |
生年不詳 養年三年(七一九) |
大宝元年遣唐使。「皇帝破陣楽」を伝えたといわれるが、「秦王破陣楽」かもしれない。 |
いぬがみの これなり 犬上 是成 |
生・歿年不詳 | 唐より「三台塩」を伝える。承和(八三四〜八四八)年間に「西王楽」の舞を作り、「春庭楽」を太食調より双調に移して舞を作る。 |
うえし 上氏 |
ー | 奈良楽人の一家。高麗国王の夫連王の子孫といわれる。笛・左舞を家業とする。 |
おうみのみふね 淡海 三船 |
養老七年(七二三) 〜 延暦四年(七八五) |
大学頭。刑部卿。演奏家ではないが、一説によれば初めての神楽歌の撰下人と言われる。 |
おおがの もとまさ 大神 基政 |
承暦三年(一〇七九) 〜 保延四年(一一三人) |
雅楽允。堀河天皇の勅により「壱団嬌」を琵琶譜より笛の譜に移し、長承二年(一一三三)笛の書『竜鳴抄』を著わす。 |
多氏 | 京都楽人の一家。多姓。多自然麿(じぜまろ)を楽祖としている。神楽歌・舞を家業とする。 | |
おおの すけただ 多 資忠 |
永承元年(一〇四六) 〜 康和二年(一一〇〇) |
堀河天皇の神楽の師範。康和二年、楽道の争いで山村正連に殺害され、多家の神楽と舞が一時絶えた。 |
おおの ただたつ 多 忠竜 |
慶応元年(一八六五) 〜 昭和十九年(一九四四) |
大正十年楽長。同十三年退官。昭和十二年帝国芸術院会員。 |
おおの ただとも 多 忠朝 |
明治十六年(一八八三) 〜 昭和三十一年(一九五六) |
昭和十一年楽長。同十五年に「浦安の舞」「悠久」「昭和楽」などを作る。 |
おおの よしもち 多 好用 |
承平四年(九三四) 〜 長和四年(一〇一五) |
藤原道長の勘気を受けて天王寺に移り住み秦公信に「採桑老」を伝える。 |
おおべ(と)のきよかみ 大戸 清上 |
生年不詳〜 承和六年(八三九) |
笛の名手であり、平安期の雅楽の日本化に大きな貢献をした作曲家。 主な作品。「秋風楽」「海青楽」「壱団嬌」「感秋楽」「承和楽」改作「安摩」「胡飲酒」共作として「輪台」「青海波」。最後の作品は「清上楽」といわれる。 |
おおべの まなわ 大戸 真縄 |
生・歿年不詳 |
承和年間に「団乱旋」の舞を改作し、「壱金楽」の舞を作ったといわれる。 |
おか 岡氏 |
ー | 天王寺楽人の一家。太秦姓。秦河勝の八男の子孫といわれ、笛・左舞を家業とする。 |
おか まさな 岡 昌名 |
天和元年(一六八一) 〜 宝暦九年(一七五九) |
失われかかった楽書・記録を集めた『楽道類聚』全三十巻を撰した。 |
おがわ もりなか 小川 守中 |
生年不詳〜 文政六年(一八二三) |
尾張の医師。文政五年『歌舞品目』十巻を著わす。 |
おく 奥氏 |
ー | 奈良楽人の一家。狛姓。高麗国王の夫連王の子孫といわれる。笛と左舞を家業とする。 |
おわリの はまぬし 尾張 浜主 |
天平五年(七三三) 〜 歿年不詳 |
笛と舞の祖といわれる。大戸清上と共に平安期の雅楽の日本化に大きく貢献した。 孝謙天皇の勅により「陵王」を改めて、「囀」を略定し、入舞に「安摩乱声」を用いるようにした他、承和の大嘗会には「拾翠楽」「河南浦」などに舞をつけ、 承和十二年正月、一一三歳で「春鶯囀」を舞ったといわれる。一説には承和二年に渡唐、同六年帰朝したとか、『五重記』 の作者ともいわれる。 |
きびの まきび 吉備 真備 |
持統七年頃 (六九三) 〜 宝亀六年(七七五) |
吉備大臣。学者。養老元年(七一七)遣唐留学生として渡唐。天平七年(七三五)、銅律管、写律管の方磬十二条、『楽音要録』十巻などを持ち帰った。 |
くだらの ていゆう 百済 貞雄 |
生・歿年不詳 | 仁和年間(八八五〜八八九)勅によって楽を作り年号にちなんで「仁和楽」とした。 |
くれの さねくら(まくら) 久礼 真蔵 |
生・歿年不詳 | 延暦年間(七八二〜八〇六)遣唐舞生として渡唐。「春庭楽」「柳花苑」を伝えた。 |
こまの ちかざね 狛 近真 |
治承元年(一一七七) 〜 仁治三年 (一二四二) |
狛氏の祖。天福元年(一二三三)『教訓抄』十巻を著す。 |
こまの ともかず 狛 朝葛 |
建長元年(一二四九) 〜 元弘三年 (一三三三) |
元亨二年頃『続教訓抄』を著し、左舞譜『掌中要録』も著す。 |
さだやすしんのう 貞保親王 |
貞観十二年(七八〇)〜 延長二年(九二四) |
清和天皇の第二皇子。「南宮」と号し、管絃に長じ特に笛の名人だった。『南宮譜(琵琶譜)』『南竹譜(笛譜)』を著し、『十操記』の著者とも伝えられる。 |
しば 芝氏 |
ー | 奈良楽人。藤原姓。笛と左舞を家業とする。 |
しば すけひろ 芝 佑泰 |
明治三十一年(一八九八)〜 昭和五十七年(一九八二) |
日本芸術院会員。正倉院の楽器を調査。五線譜による歌曲、楽曲の総譜を著し、『雅楽通解』など、雅楽に関する著作が多い。 |
しも はる(げしゅん) 下 春 |
生・歿年不詳 | 『教訓抄』に「高麗楽は四夷の楽。下春渡す」。『楽家録』には「所謂四夷楽は皆下春渡す所なり」などとある。 |
しんぜい にゅうどう 信西 入道 |
生年不祥〜 (一一五九) |
藤原通憲(ふじわらのみちのり)。平安末期の朝臣。小納言に進んで出家し信西といった。『信西入道古楽圖』で知られる。 |
その 薗氏 |
ー | 天王寺楽人の一家。太秦姓。秦河勝の子孫。笙と左舞を家業とする。 |
その ひろしげ 園 広茂 |
明治三十四年(一九〇一)〜 | 舞の名手として知られ、「胡飲酒」「蘇莫者」を継承し、「春鶯囀」「蘇合香」など大曲の指導を行なっている。 |
たけるべの さかまろ 建部 逆麿 |
生歿年不祥 | 平安時代の雅楽家。笛師。「廷喜楽(えんぎらく)」の作曲をしたといわれる。 |
つじ 辻氏 |
ー | 奈良楽人の一家。高麗王国の夫連王の子孫。笙と左舞を家業とする。 |
つじ たかひで 辻 高秀 |
正保二年(一六四五) 〜 宝永四年 (一七〇七) |
元禄七年(一六九四)賀茂祭の為に甥の近家と共に「東遊」を再興する。 |
つねよの おとうお 常世 乙魚 |
生歿年不祥 | 弘仁(八一〇〜八二四)年間南池院行幸の時「秋風楽」の舞を作り、承和(八三四〜八四八)には「輪台」「青海波」を大戸清上などと共作したといわれ、 「胡徳楽」を横笛の譜から高麗曲に渡した。又宣旨により「十天楽」を作ったともいわれる。 |
とうぎ 東儀氏 |
ー | 天王寺楽人の一家。太秦姓。秦河勝の子孫。笛と左舞を家業とする。 |
とよはら 豊原氏 |
ー | 京都楽人の一家。一姓一氏。後に豊(ぶんの)氏となる。天武天皇の第五皇子、大津王の後裔といわれる。笙を家業とする。 |
とよはらの むねあき 豊原 統秋 |
宝徳二年(一四五〇) 〜 大永四年(一五二四) |
後柏原天皇の笙の師範。応仁の乱以降の雅楽が絶えるのを憂い、『體源抄十三巻』を著わす。また『舞曲口伝』も著わす。 |
はやし 林氏 |
ー | 天王寺楽人の一家。太秦姓。秦河勝の子孫。笙と右舞を家業とする。 |
はやし なおくら(まくら) 林 真(直)倉 |
生・歿年不詳 | 承和年間(八三四〜八四八)勅により「賀殿」の舞を作り、立太子の時には「央宮楽」を作る。 |
ばらもんそうじょう 婆羅門僧正 |
生年不詳〜 天平宝字四年 (七六〇) |
天平八年(七三六)林邑の僧仏哲と共に「林邑楽」を伝えた。又天平勝宝四年(七五二)の大仏開眼供養の導師を務める。 |
ふじわらの きんとう 藤原 公任 |
康保三年(九六六) 〜 長久二年 (一〇四一) |
四条大納言。詩・歌・管弦に優れていて『和漢朗詠集』を撰す。 |
ふじわらの さだとし 藤原 貞敏 |
大同二年(八〇七) 〜 貞観九年(八六七)) |
琵琶の名人で祖といわれる。承和二年(八三五)年遣唐使准判官として渡唐。「玄象」「青山」(共に仁明天皇の御物)の名器と琵琶譜を持ち帰る。 「賀殿」 の曲を琵琶で習い伝えたといわれる。 |
ふじわらの ただふさ 藤原 忠房 |
生年不詳〜 延長六年 (九二八) |
廷喜十六年(九一六)頃神楽歌の増強を選定。廷喜二十年(九二〇)頃に催馬楽の増強選定。「胡蝶」「延喜楽」を作り、「武徳楽」「河曲子」を改作する。 |
ふじわらのもろなが 藤原 師長 |
保延四年(一一三八)〜 建久三年(一一九二) |
太政大臣。妙音院と号し、謡物・管絃に勝れていたが、特に琵琶・筝の名手。琵琶譜『三五要録』筝譜『仁智要録』を著わす。 |
ぶってつ 仏哲 |
生・歿年不詳 | 林邑(ベトナム)の僧。天平八年(七三六)婆羅門僧正と共に渡来。所謂「林邑八楽」を伝え教えた。 |
みしまの たけくら 三嶋武蔵 |
生・歿年不詳 | 承和年間(八三四〜八四八)に「承和楽」「壱団嬌」の舞を作舞。 |
みなもとの ひろまさ 源 博雅 |
廷喜十八年(九一八)〜 天元三年(九八〇) |
醍醐天皇の皇子。博雅三位又は長秋卿などといわれ、謡物では藤家流の始祖。「長慶子」の作者として知られる。 |
みなもとの まさのぷ 源 雅信 |
延喜二十年(九二〇)〜 正暦四年(九九三) |
宇多天皇の皇子。花山天皇の頃に「神楽歌」「催馬楽」の補正選定をした。「朗詠」の始祖。 |
みなもとの よりよし 源 頼能 |
生・歿年不詳 | 王堅物頼吉(おうけんもつよりよし)ともいう。後三条天皇 (一〇六八〜一〇七二)に仕えた。 笛の名手として聞こえる。天皇の命により大嘗会のときに「千秋楽(せんしゅうらく)」を作曲し、「拾翠楽(じゅっすいらく)」も作った。 |
み ま し 味 摩 之 |
生・歿年不詳 | 推古天皇の二十年(六一二)に百済より渡来し「伎楽(呉楽)」を伝えた。 |
やまのい 山井氏 |
ー | 京都楽人の一家。大神姓。笛と舞を家業とする。 |
よしみねの やすよ 良ュ 安世 |
延暦四年(七八五) 〜 天長七年(八三〇) |
桓武天皇の皇子。「輪台」「青海波」の舞を作舞したと言われる。 |
わにべの おおたまろ 和邇部 大田麿 |
延暦十七年 (七九八) 〜 貞観七年 (八六五) |
承和年間(八三四〜八四八)に「輪台」「青海波」を平調より盤渉調に、「春庭楽」を太食調より双調に移す。 嘉祥年間(八四八〜八五〇)には「嘉祥楽」を作って「賀殿破」とした。 |
わにべの しまつぐ 和邇部 嶋継 |
生・歿年不詳 | 桓武天皇(七八一〜八〇六)の時「蘇合香」を渡し伝えたといわれる。 |
*参考資料:「雅楽神韻」東儀俊美著